短歌の純響社

ぽぽぽ式アラ川通信
おととい生まれたひとに会う

几帳面な友人に、携帯メールを送ったのでした。
几帳面な友人は携帯メールに対しても几帳面で、いつもならすぐに返事が来るのです。でも今回に限って、翌日になってもレスポンスがなかった。
らしくない。どうしたのだろう、と首をかしげていると、さらに次の日の朝、携帯電話に赤ん坊の写真つきのメールが届いたのです。

メールには、「昨日、出産しました!」と書かれていました。

つまり、私がメールを送ったときには、陣痛の最中だったらしい。
どうしたのかしら、と首をかしげているときは、ちょうどお産の最中か、お産が終わった直後だったらしい。
そりゃあメールは返せないやね、と納得しながら、頼まれたとおり、ゼリー数種と飲み物を手にお見舞いに行ったのです。

入院室に入ると、友人と、おととい生まれたひとがいました。
おととい生まれたひとは、標準サイズのはずなのにとても小さくて、小さいと思って目を離してからまた見ると、少し驚くほどに小さいのです。
その小さな手には細くて短い指が五本ずつついていて、それぞれの指にはまぼろしのように小さな爪が、一本一本ついています。わたしの手のひらよりも小さな顔には、小さな目と鼻と口が収まっていて、かふぉ、と欠伸をする口のなかには、歯が一本もないのでした。小さな手は開いたり閉じたりを繰り返し、小さな足は何べんも、泳ぐように宙を蹴っています。

おおお。とか、ザ・赤子。などと思いながら、
「これが大きくなるのだから、すごいね」
と言うと、
「これを大きくするのがまた、大変なのよ」
と親である友人が答えました。

おととい生まれたひとは、これから名前をつけられて、衣食住の世話をまんべんなくされて、ふにゃふにゃの首も数ヶ月ですわって、やがてお座りをし、はいはいをし、歩き、走り、言葉を口にし、幼児になって、いくのです。それを途切れることなく世話していくのだから、そりゃあ親は大変だ。
そうして育てられたひとは、やがては大人になって、中年になり、いつかは年寄りになっていく。なんて途方もない話かしら。
その、途方もないことのごく最初の三日目を、今日、この小さなひとは迎えているのです。

小さなひとに顔を寄せて、
「どうですかね、空気ばっかりだけど、ここは慣れてきましたか」
と話しかけると、小さなひとはまぶたを開けて閉じ、手のひらを握って開きました。頭には、生まれたときの血の欠片が小さく凝ってついています。開いて閉じて握って開いて、を何度か繰り返してから、小さなひとは目をぎゅっとつぶると、えううお、と乳を欲しがって泣き声をあげました。

小さなひとが眠りについたところで、お母さんも休みたいだろうと、友人に別れを告げることにしました。
病院のあるビルを出ると、そこではたくさんの人が歩道を歩んだり、信号待ちをしたり、車に乗って視界から消えたり、しゃべったりしているのです。
この誰もが、いつかは小さなひとだったのか。よくぞ揃って大きくなったもんだ。
なるほど、なるほど、と感心しながら、大きくなった私もまた、電車に揺られて帰るのでした。

  雪の降るような気がして目覚めれば枕に響く吾の脈動  オカザキなを


オカザキなを 歌人。 1972年、東京の隅っこに生まれる。 「歌人集団かばんの会」会員。


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