短歌の純響社

短歌入門 さいかち真
短歌入門第7回 現代詩と短歌

 最近になって田口ランディの『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』という本を読んで、十年も前にこの人が、介護や、終末医療や、障害や、いじめや、家庭崩壊や、その他もろもろの困難な課題に、実に見事な言葉のフットワークで言及していたのだということを知って感心した。

 彼女の文章は、心情の論理と、自分の経験に基づく倫理感のようなもののバランスがいいために、説得力がある。でも、別に押しつけがましくはない。
  どんな公的な事案にかかわる文章でも、あくまで私事としての根っこを持ったところから意見が書かれている。と言うよりも、彼女の生活史自体がなかなか苛酷なものだから、どんなに扱っている内容が厳しいものでも、彼女は自分の経験の厚みに照らして語るだけの懐の深い部分を持っている。だから、読者は筆者と同じように考えなくても別にかまわないんですよ、というメッセージが、常に同時に伝えられている。にもかかわらず、ある特定の問題について作者が提出したイメージ記憶は、実に鮮明に読み手の心の中に残る。エッセイが短編小説のような場面の喚起力を持っている。特に脳死になった友人と、植物状態になった母についての文章は、印象的だった。実は私は、その後ひんぱんに脳死の友人の姿のイメージが、道を歩いている時などに頭の中に浮かんでしまって困ったのだった。

 短歌も同じことができる文芸である。これが痩せてしまった現代詩と決定的に異なるところである。短歌は、ひと頃の現代詩ほどいちずに純粋ではない。特に近代短歌は、雅俗の区別をいったん取り払ったために、何でも入れられる容器になっている。しかし、ここからが肝要なのだが、何でも定型の中に入れたからと言って、それが美しいとは限らないということがあるのである。

 一つの美的な世界を構築するということは、同時にいくつもの事柄についての断念を必要とする。散文と短歌の違うところは、そこにある。この問題はなかなかうまく説明できない。最後は作品の善し悪しで言うほかないからである。

 ただ短歌作者の場合、確実に言えることは、習作期に歌会に出て相互批評をしないと伸びないし、独り立ちしたと思える時期になっても、仲間と揉み合い、研鑽する場を持たない歌人は、どこかで壁にぶつかってしまうということである。私はこれまで常に歌会に出ることを勧めて来たし、若い人達には、小人数で研究会をすることをすすめて来た。それ以外に短歌がうまくなる方策はないような気がする。最近話題の光森裕樹さんも若者の歌の会の中から出て来た人だ。

さいかち真  歌人。
著書に評論集『生まれては死んでゆけ 新世紀短歌入門』、
歌集『裸の日曜日』等がある。


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