短歌の純響社

短歌入門 さいかち真
短歌入門第5回 子規と茂吉

   5  地獄極楽図をめぐって

  木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ  正岡子規
  (きのもとに ふせるほとけを うちかこみ、ぞうへびどもの なきいるところ。)

 
  この歌は、斎藤茂吉がしばしば言及したことでも知られている。明治三十二年に子規が釈迦涅槃図に取材して作った歌である。入滅した釈迦の死を嘆き悲しんで、象や蛇などの動物までもが「泣き居るところ」という客観的な表現に、茂吉は作歌の要諦が示されていると思った。そして生涯その感動を忘れなかった。

  飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ 齋藤茂吉
  赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ
  (いいのなかゆ とろとろとのぼる ほのおみて、ほそきえんくの おどろくところ。)
  (あかきいけに ひとりぼっちの まはだかの おんなもうじゃの なきいるところ。)

  「地獄極楽図」と題された十一首の二首めと三首め。
  明治三十九年作、とある。二首とも初句が六語音節で字余り。一首めは、二句めもそれに引っ張られたかたちで一語音の字余り。
  「飯の中ゆ」は、飯の中から、の意。地獄だから飯を食べようとすると、炎が立ち上ってしまうのである。赤いのは、血の池地獄。
  現代とちがって、裸の絵に言及すること自体がエロティックな要素を含み持つものだった。心身共に強い抑圧を強いられた茂吉には、嗜虐的な 傾向がある。だから、この一連に現れているものは、茂吉の身体性の表現となり得ている。
  むろん作者本人は、子規を見ならって作ってみたのである。画家なら模写というところだが、内心のマグマが自ずから噴出してしまうところに、短歌という表現形式の不思議さがある。

  
  さて、茂吉の歌の大元には、子規が見出した橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌があった。

  たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時         橘曙覧
  たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつづけて煙艸(たばこ)吸ふとき

  有名な「独楽吟」の一連である。岩波文庫だけでなく、この一連だけを取り出して解説した本もあるし、古書店で歌集の全訳なんていうものも見かけたことがあるから、橘曙覧は、近世歌人の中では良寛和尚なみに人気が高い歌人だろう。

  確かに子規は、文学の分野における伝統文化の作り直しの天才だったが、子規がとった「古今集」排撃という戦略は、その後百年近くにわたって後進を誤つことになった。掲出歌の二首め、何やら石川啄木風なのに気が付いた人もあるだろう。この肩の力の抜け方は、確かにすごいと思う。

さいかち真  歌人。
著書に評論集『生まれては死んでゆけ 新世紀短歌入門』、
歌集『裸の日曜日』等がある。


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