短歌の純響社

西巻真さんへの返答
堂園昌彦

まず、こちらの質問にお答えいただけなかったことを残念に思います。私が西巻さんに質問をしたのは、別に、私や永井さんの作品の取り扱われ方を批判したかったからではありません。ただ、不明確な部分を明確にすることで、より深い議論ができるのではないかな、と思ったのです。

仕方ありませんので、私が質問をした意図と、それに関する考えを述べさせていただきます。

まず、2の質問に関してですが、原文のこの箇所をもう少し長く引用すると、「永井や堂園の歌の雰囲気から漂ってくるある種の良質な抒情を、もう少し私個人の先行文化との類推という観点から再構成すると、彼らの短歌の源流には短歌そのものの影響だけではなく、同時代に広く流布している、アメリカ文学的な、現代の『商業主義化』された文学の影響を色濃く受けているように思える。

実際、こういった抒情性は今までになかったもので、たとえばレイモンド・カーヴァーや村上春樹を通じて書店に流通しているような『英米文学』を読んだ読後感とほぼ同質な印象を受けるという点で、私は彼らの作品に、きわめて『本の雑誌、的な、ある種の商業主義的なにおいがする』、と指摘しても言い過ぎではないように思う。 」

と西巻さんは書かれています。

「同時代に広く流布している、アメリカ文学的な、現代の『商業主義化』された文学」とは、いったいなんのことでしょうか。「たとえばレイモンド・カーヴァーや村上春樹を通じて書店に流通しているような『英米文学』」と言い直されていますが、これも具体的になんのことを指しているのか、私にはぜんぜん分かりません。うーん、「村上春樹」とありますし、たとえば彼の翻訳した『キャッチャー・イン・ザ・ライ』などを指しているのでしょうか。

(あ、蛇足ですけど、「本の雑誌」って、英米文学でしたっけ。椎名誠、というイメージが強いのですが)

しかし、「レイモンド・カーヴァー」や「村上春樹」が非常に「社会、システム、といった大きな問題」に関わっていることは今では常識ですし(具体的に述べますと、カーヴァーが繰り返し描いているのは、アメリカの田舎町の「貧しい人たちの悲劇」ですし、村上春樹がオウム問題に深くコミットしていることは周知の事実です)、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も「第2次大戦後の中産階級の若者の不安」という、非常に社会的な問題が内包されています。

そもそも、私には「社会、システム、といった大きな問題」に関わらない「アメリカ文学」というものをひとつも思い浮かべることができません。

それで、西巻さんがいったい何を問題にしているのか、知りたかったのです。

次に、3の、私や永井祐さんの作品に対してなされた、「社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない作風である」という批判についてです。

永井さんの作品の具体的にどんなところが「社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない」のでしょうか。

たとえば、文中で挙げられている

テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区    永井祐

ですが、私はこの歌はけっして「社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない作風」とは思わないのです。

この歌の特徴をひとことで言うと、私は「批評精神」だと思います。

この歌の主体は、テレビをしながらメールをしている。歌で描かれるのはそれだけです。そこから、一見何も考えずにぼうっと現状に自足している主人公像を想像するかもしれません。「メールする」のリフレインも、その印象に拍車をかけます。

しかし、この主体は、現状に満足して何も考えていないはずはありません。

なぜならば、本当に完全に自足しきっている人間ならば、自分の周囲に「品川区」がある、とは思わないからです。自足しきっている人間の周囲にあるのは、もっと「温かい家」だったり、「美しい風景」だったり、思考の停止を促すものたちです。

「品川区」という言葉は、ある種、覚めた頭でなければ出てこない言葉です。つまりここには、メールしているだけの「ぼく」の周囲にも「品川区」という社会システムが張り巡らされている、という認識が根底にあります。

このような点からも、永井さんの作品が「社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない作風」だという主張には疑問です。

西巻さんが引用されている、斉藤斎藤さんの主張は、分かります。「永井さんとかは、システムのあり方については自覚的でも、それをどうにもしようとしていないところがあって、」と斉藤さんは、おっしゃっている。つまり、永井さんは社会的システムが存在していることへの認識はあるが(この時点で西巻さんのおっしゃる「社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない作風」とは矛盾します)作品中で目立ったかたちでプロテストをしていないように見えます。

たしかに、この点は、永井作品の大きな問題です。

しかし、先ほどの歌のように、よく分析してみると、そこには目立つプロテストとは違うかたちでの社会的メッセージが含まれているのではないでしょうか。

具体的にプロテストをする身振りだけが、社会的な批判の唯一の方法だとは私は思いません。そういえばさきほど挙げた『キャッチャー〜』も、発表当時は「子供の神経症的な繰り言」という評価が多かったのですが、現在では、背景に社会問題を含んでいる、という議論が主流です。そして、『キャッチャー〜』は現在でも非常に多くの読者を得ています。

(ただ、やはり斉藤さんのおっしゃることは非常に鋭くて、さきほどの歌でも「つつんでいる」というように、社会システムへのある種の親和性が見られます。もちろん、この部分だけで親和性一辺倒と捉えるのは浅はかです。しかし、永井作品の中にこのような両義性が見られるのはとても面白いと思います。「システムへの親和と批判の狭間で、なんらかの世界への肯定性を発見する」というのが、永井作品の基本パターンと私は思いますが、少しこの結論は勇み足かもしれません。)

このように、ひとつの作品には、様々なレイヤーが存在しているのです。それを一刀両断に「『商業主義化』された」とか、「社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない」と断ずるのは難しいのではないでしょうか。どんな作品も「商業的」であり、かつ同時に「社会的」でありうると、私は思います。

私自身の作品につきましては、文中でなにも具体的に挙げられていませんので、コメントのしようがありません。省略させていただきます。

また、1につきましては、さすがにコメントはしません。察してください。

以上が、私なりの意見です。

最後にお伝えしておきますが、こちらの質問をきっちりと受け止めてくれず、問題をすり替えられたことには、憤りを覚えました。

わざわざ時間を割いてくださってありがとうございました。また、文章の掲載許可をくださった純響社さんにも、深く感謝いたします。

堂園昌彦  歌人。1983年生まれ
「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。


※この文章は、西巻真さんの「堂園昌彦さんへの応答」への返答として書かれました。

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