短歌の純響社

短歌時評 西巻真
文化のコミュニティ

突然ではあるが、再開後初めて歌の話をするので文体を変える。

大辻隆弘、坂井修一、斉藤斎藤、花山周子というメンバーで行われた短歌研究6月号の座談会「批評の言葉について」は、示唆に含む問題提起も多数行われたが、同時に話題が拡散しすぎてしまって、一つのことを取り上げて指し示すのが非常に難しい印象を受けた。

かなり大雑把にいうと、斉藤斎藤、花山周子という二人の若手の論客が、年長の世代の論客である大辻隆弘、坂井修一に自身の短歌観をぶつけるという構造になったとまとめてもいいのだろうが、この二人の見解は共通しているようでそもそもが異なっている部分も大きい。この座談会を取り上げる私も含めて、近年、歌人のスタンスは非常に難しい位置にたってきており、この座談会の読み手である私の立場から言っても、一概に「こうである」と言えないという難しい地点に立ってきていると思う。

この4名の議論は、おそらく二つの問題と大きくかかわっているように思える。

それは、斉藤と花山、大辻、坂井でそれぞれに披歴されたことではあるが、「短歌の読みをどうするか」という部分と、「短歌そのものをどうするか」という部分だろう。

「短歌そのものをどうするか」については私自身も幾度となく考えてはいるのだが、少なくともこの4人がまとまった形で短歌研究という総合誌に意見を発表したことは非常に意義深いものと考える。これについては後ほど触れたいので、ここでは取り扱わない。

さて、「短歌の読みをどうするか」という部分である。

近年の座談会の定番にもれず、各自がそれぞれに歌を持ち寄るという形で展開された今回の座談会であるが、今までの他の座談会とは異なり、かなり率直にものをいう感じの論客がそろったので、私自身も非常に読みごたえがあった。その点は読者として、素直に敬意を表したい。

ただ、状況が何も変わっていないというのも面白いところで、2006年前後に早くも週刊時評で大辻が永井の歌を取り上げた事実は確認できるが、いまだに永井祐は歌集を出しておらず、大辻のテロの歌はいまだに批判されつづけている。穂村弘が『短歌の友人』で提唱したさまざまな批評用語も、結局歌人たちに「どうとらえるべきか」という咀嚼が全くできていないまま、未だに混乱しているままである。

だいぶ歌人相互の口頭ベースではこの辺の話題は繰り返されていると思うが、誌面で話す 機会が極端に少ないのかもしれない。短歌というジャンルの速度感に、私もそろそろ慣れなければいけないのかもしれない。

                        ※

花山周子は冒頭で以下のように指摘する。

「このところわたしがずっと意識させられていることですと、私の同世代の人の作品への感じ方が、上の世代とわたしのとでは、感覚がずれているなあという印象は受けていて、世代間の差があることを感じています。たとえば、永井祐さんの歌について。私は、割と近代に近いような読み方で素朴によさを感じているんですけれども、歴史からもっとも切り離されたみたいな言われ方をされているのをよく聞いて意外な感じがするのです。それで、彼の作品が上の世代の方たちに受け渡される過程に、穂村さんの批評用語が挟まることで、かなりねじれた伝わり方をしているのではないか、穂村さんの批評を享受する側の問題として感じているということです。」(「短歌研究」6月号 p40)

永井の歌を、非常に「近代的」であるという花山の指摘は、別に歴史的な「近代性」とか、 社会システムにおける「近代性」ということではないことはここで確認しておこう。

(たとえば花山の指摘で、坂井がとっさに「坂の上の雲」を思い浮かべるというような「近代」ではなく、あくまで歌の「構造上」の近代性であることは花山自身も訂正している。)

「今まで口語の歌というのはけっこう三十一音に合わせてきて、逆に五つの分割というものは無視された作りだったり、あるいは五七五七七にぴったり合わせてくるような作りが多かったんですけど、永井さんはもうちょっとゆったりした五七五七七で、字余りなんかも許しながら作ってくる。その構造というのは、つい最前にあった口語短歌よりはその前の近代的な文体を持ってきているということが一つと、ほかのだれでもない「わたし」からの発信をしてくるということ、そこに情感を入れてくるという意味で。あとはその文語的な助動詞の働きみたいなものをいかに口語でやれるか、口語の開拓を相当丁寧にやっているということですね、特徴としては。」(「短歌研究」6月号p40)

永井の歌の構造、それはどの歌を引用してもそうなのだと思うが、歌の構造がもともと平坦な口語で、字余りを許容するというスタンスを伴っているという点で、いわゆる石川啄木と比較するというような読み筋は十分に可能性があると思われる。昭和2年の坪野哲久、あるいは大正初期の前田夕暮、その師系である香川進の口語短歌運動の口語短歌と比較しても、いわゆる57577の韻律を破壊した形の口語は非常に少なく、ゆるく字余りでありながら上手な形で57577のリズムを活用している短歌がほとんどである。啄木との類推性を指摘するのも無理な話ではないだろう。永井を「歴史的に位置づける」ということをあえて行う動きが出てきたのは歓迎したい。

その「読み筋」という点で、斉藤は花山とほぼ同種の意見を持っているようだ。永井が精神的に近代短歌であるという花山の説を踏まえたうえで、このような仮説を提示する。

「表面的には口語でポストモダン的に見えても、永井さんは精神的には近代短歌なのだとわかる。むしろ文語を取り入れて作歌している若い人のほうが、表面的には近代短歌に似ていても、精神的にはスーパーフラットで、むしろポストモダンなんですね」(「短歌研究」6月号 p42)

このような定義付けは、黒瀬珂瀾が「現代詩手帖」6月号で同様に主張していた文語と口語の選択の感覚とはちょうど真逆の指摘となるように感じた。

「詩歌の栄光を短歌に求めるか、それとも自分を承認していくことを短歌に求めるかによって、文語と口語を選ぶ差が出てくることになります。(中略)文語を使うことで、歴史の重みというのが長い時間を通して私を通過していくことを詠もうとしている。その長い時間をとるのか、それとも口語による短いスパン、一瞬性をとるのかという問題になってくるわけです」(「現代詩手帖」6月号 p92)

「文語は歴史性を感じる」「口語は短い一瞬のスパン」ととらえる黒瀬の言い方のほうがなじみやすいが、これを遡行していくと黒瀬の場合、春日井建をはじめとする前衛短歌の歌人の系譜を起源としてしまうので、その歴史性を共有しない立場の人間からはどうしても違和感が出そうだ。私自身も以前から「文語は古い」「口語は新しい」というある種の概念性には違和感を感じている。

黒瀬のように春日井建がそもそも絶対的な存在として「ない」、私のような作歌歴が浅い人間からすると、逆に「文語のほうがツールとして新鮮」なのだ。高柳重信が「俳句的レトリックには文語と口語がツールとして併置されている」と述べているように、私も完全な口語新かなと完全な文語旧かなをどちらも使う。ただ、結社に入ってしまうと、「新かなと旧かなを歌のシーンに合わせて毎月変える」という自由さがまだ許容されていないらしいので、やむをえず旧かななら旧かなで2年作るというような選択をしているだけなのである。

「ツールとして便利だから文語を使う」、という立場の歌人からすると、斉藤の把握の仕方にはむしろ鮮度がある。むろん、黒瀬が言うように最低限の修辞的蓄積というものがあるので、それを理解しながら文語技術は身につけていかなければならないが。

花山と斉藤の差は、文語と口語といった問題点の他に、この永井祐の「スタンスそのもの」を是とするか非とするか、という部分にあった。

斉藤は永井の歌に対して、

「島田修三さんと山田富士郎さんの批判は、半分は誤解だった。でももう半分、特に島田さんが批判していた「思考の武装解除」、要するにシステムとか社会と闘っていないじゃじないかという批判は、半分は当たっていたと思うんですよ。永井さんとかは、システムのあり方については自覚的でも、それをどうにもしようとしていないところがあって、その批判に私もわりと共感する」(「短歌研究」 6月号 p42)

と述べていたのに対し、

花山はこう述べる。

「結局、永井さんがどういう方向で自分のそういう表現を持ってくるかというと、抑制であったり我慢という方向に行くというか。それを発露してしまうことに、むしろ倫理的にはひっかかりがあると思うんですよね。斉藤さんは割と発露する方向に向いているという感じが、私なんかはするんですけど」(「短歌研究」6月号 p42)

単純にいうと「システムや社会と闘っていない」永井のスタンスをどうとらえるかという差だった。私個人は、永井自身が闘っていようがいまいが特に問題はないと思うのだが、 むしろ問題なのは、永井祐や堂園昌彦といった「闘わない」歌人たちのスタンスは、やはり「闘わない人たち」にひろく受容され、共感を受け、むしろ神聖化されてしまうのではないか、という部分なのである。

・「人生は苦しい」(たけし)「人生はなんと美しい」(故モーツァルト) 永井祐

・テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区    同

早稲田短歌39号の瀬戸夏子の評論「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞)のゆがみ(をこえて)」から、瀬戸自身が取り上げている永井の短歌を引用した。瀬戸が引用した永井の短歌は、たとえば短歌研究の座談会で取り上げられた永井の作品よりもはるかに鮮度が高く、瀬戸の批評家としてのセンスを感じさせるものだったが、永井の文体に対してあまりにも共感性が高すぎ、掛け値なしで絶賛しているという点でややファナティックに映ったのも事実である。

同様に吉田隼人が堂園昌彦について論じている「内面性と外部性―堂園昌彦試論」も、今までにないほどシャープな論理を展開し、堂園短歌の魅力の一端を解きほぐしてくれた評論としてはかなり卓抜なものだったのは事実であるが、その「内面性」を評価する側面に傾注しすぎてしまったきらいがあり、ではどう相対化するのか、という具体的な記述を欠いていたという点で今後にさらなる期待がもてる内容だった。

(もっとも吉田自身も、「あくまで自己本位の立場に立つことで世界を力強く描き出していく魅力の裏側には、それゆえ時に、作品世界から外部性としての他者を排除してしまうというある種の暴力性が見え隠れしている」と指摘しており、吉田自身もすでに了解済みの側面が非常に強いのだが…)

永井や堂園の歌の雰囲気から漂ってくるある種の良質な抒情を、もう少し私個人の先行文化との類推という観点から再構成すると、彼らの短歌の源流には短歌そのものの影響だけではなく、同時代に広く流布している、アメリカ文学的な、現代の「商業主義化」された文学の影響を色濃く受けているように思える。

実際、こういった抒情性は今までになかったもので、たとえばレイモンド・カーヴァーや村上春樹を通じて書店に流通しているような「英米文学」を読んだ読後感とほぼ同質な印象を受けるという点で、私は彼らの作品に、きわめて「本の雑誌、的な、ある種の商業主義的なにおいがする」、と指摘しても言い過ぎではないように思う。

永井や堂園の短歌のたたずまいは、「社会やシステムに物申すことなく、むしろどこかでポストカードを並べて、この作品きれいでしょう」というおとなしやかな主張をする、現代のちょっとデザイナーめいた、中央線沿線あたりにいそうな文化人たちのあり様と酷似しているように感じる。

むしろ、彼らの在り方そのものが、きわめてローカリゼーションであり、(私は地方都市でこのような商売が流通しているのをあまり見たことがない)、社会、システム、といった大きな問題とは決してつながっていかない作風であることは指摘しておいて間違いはないように思う。

そして、穂村弘をはじめとして、その影響圏でむしろ「商売が成功」してしまうのはこのような在り方の歌たちなのではないか、ということに私は何か危機的な匂いを感じ取ってしまうのだが、どうだろうか。

確かに彼らの短歌は魅力的だ。しかし、彼らの感受性そのものがすべてになってしまう短歌界は全く面白くない。

二十代から三十代前半にかけての若手歌人たちは、穂村の「武装解除」というキーワードに距離を置くか置かないかは別として、あくまで自身の体感と地続きのところで永井短歌の魅力を語り始めた。それは賞賛すべきことだ。

しかし、それらが一方的な賞賛や批判にさらされるのは決していいことではないだろう。

永井や堂園の影響を多分に受けていると思われる同人誌「町」が、その作品の強度や作歌的自立性という面できわめて「似たり寄ったり」の作品しか排出できていないということは、細かく分析すればいくらでも主張できる部分なのだ。その意味で、「部活短歌」的な温暖なコミュニティが、歌人たちに広がっているというのも事実なのである。

たとえば大辻隆弘は歌壇・結社というコミュニティを信じているらしい。むしろ若手歌人たちがそういったコミュニティから切れたところで作歌をすることに危機感を感じて あえて戦略的に「歌の読みの共同性」といったことにこだわるのは、理解できる。 しかし、たとえば、「短歌の読みの共同性」とは、結社かインターネットか、しかないのか、というと、若手歌人は若手歌人で年長世代のように、また、そういった「短歌的な読みの共同性」とは切れたところで、コミュニティを自発的に作ってしまう。

これは、短歌という詩形の持つ特異な側面と言えなくもないだろう。

短歌を続ける上でどうも「誰もが共同体を必要としているらしい」ということは、直観的に私も感じ取っているが、その共同体の背景については慎重に検討しなければならない。

もちろん、今具体名を出した早稲田短歌のみが問題ではない。

私の所属する彗星集も、「新彗星」を一読してもらえばわかるように、「作歌的に自立」している、「独自のアプローチを言語化できる」歌人は極めて少ない。そもそもコミュニティとは作歌的に自立している人間には必要がない。むしろ、そういった確信のない人間が、「勉強をしたい」といった理由でそれぞれに集まる。

あとはそのコミュニティがサロンなのか、結社なのか、本質的に何の影響を受けているのか、といった質的な「差」だけがあって、そのなかの「濃さ」とか「正しさ」というのは歌を読む人間それぞれに還元される問題である。

コミュニティが存立する質的な背景が異なってしまうと、「賞賛」「批判」といった一元的な価値観でそれぞれの歌人たちの立場の良し悪しを測るべきではない。

現代の短歌は格段に結社・同人誌といった帰属を離れて、より小規模にコミュニティ化している。批評の在り方は、むしろ、それぞれの短歌の背景からどのような文化圏が「逆算」されていくのかということに意識的になっていくべきなのではないだろうか。つまり、それぞれの歌人の帰属する「文化のコミュニティ」を明確にしていくほうが、より現代のコミュニティ化した短歌状況に対応できる批評が生まれるのではないだろうか。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞  2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事

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