短歌の純響社

短歌時評 西巻真
短歌の批評とは何か?

純響社さんの短歌時評、4回目を迎えました。

江田浩司さんからすでにご返答をいただいておりますので、今回のテーマはおのずと それに合わせたものになりましょう。

短歌の批評とは何か?

まず、「批評」とは何か。

これはおそらく文学の世界では、二つの意味が合わさっている言葉になるでしょう。 「批判」という言葉と、「評価」という言葉。

もともと「critic」という言葉がどういう意味あいで使われてきたのか、ということを考えれば、圧倒的に「批判」という言葉でしょう。

それが「文学」という無形のものになると、「批判」ばっかりしていても仕方がないので、「評価」、という言葉で置き換えられてゆく。

文学の美しさとか、音楽の美しさを一言で言え、と言われたら、おそらく「すばらしい」としかいえません。

要するに、「好き」か「嫌いか」ですよね。

そのくらい、文学とか音楽やアートの価値って、多様で、人の好みによって全然違うものです。

私がこの作品をどれだけ好きなのか、ということをちょっと難しそうに語るのが、「評価」になるのかな。

私がこの作品をどれだけ嫌いなのか、ということをちょっと難しそうに語るのが、「批判」ですね。

で、私が基本的にどっちの意味合いで、「批評」を使っているか、と考えると、どうも90%以上、「批判」なんです。

これは、他の方の作品が嫌い、と言っているわけでは無論、ありません。

まず、こんなにふうに偉そうに語っている私自身についても、いつも「批判的」なのです。

だから、同じようなことをずっと続けることができない。すぐ自分の作品が嫌いになって、飽きてしまうから。

他の人の作品を見ても、自分をみても、いつも半分以上懐疑的。

だから、「おいおい、これがすばらしいぜ」といって、何か本やCDを薦めてくれる方に対しても、 「うーん。そうなのかなあ。。」とあれこれ悩む。

で、その作業を20年以上(これ多分、私の人生の大半ですが)、ずーっと続けていくと、「自分自信もあんまり信用していない。他の人もあんまり信用していない」

という人間になってしまう。(これは半分冗談ですが)

                        ※

本当に申し訳ないのですが、私が「ぎょっ」となる、というか、これは誰に対してもそうなのですが、心の底から「引いてしまう」瞬間、というのがあります。

それは、どなたかの作品の美しさを嬉々として語る方の「目」を見るときです。

そのとき、おそらくその方の目は、「喜び」に満ちあふれている。

ああ、美しい。

なんて、美しいんだ。

その美しさを見るにつれて、私はどん引きしてしてしまう。

それは、何かを信じてしまっている「目」に見えてしまうから。

で、私が自分自身や、自分の好きな作品について語るときも、やっぱりそういう「目」になってるんだろうなあ。と、意識しながら、なるべく盲目的に「好き」と言わずに、すごく冷静なふりをしてしまう自分の姿が、あります。

それは私が好きなものが、ものすごくダサイものなんだろう。と言う自覚があるからです。

つい2週間ほど前になりますが、映画の上映会で「BABE」を見て、素で泣いてしまいました。 もちろん、あの、「豚が牧羊犬のまねをしていく」映画です。

で、それを熱心に語ったら、「うーん、なんかこういう映画、とっても宗教っぽく見えるんだよね〜」と、すごく真面目な人から言われました。

そうなんです。

絶賛してしまうと、ある意味「宗教」に似てしまう。

だから、あんまり信仰していないふりをして、「この映画、実はもうちょっと深くてね…」と、言いたくなってしまうのではないだろうか。

私が短歌の世界で、一体誰を「信仰」しているかを熱心に語ったら、おそらく多くの方が本当に引いてしまうでしょう。

私はそういう体験を何度もしてきましたし、もう「これが絶賛に値する」などという陳腐な表現を使う気力もなくなってしまいましたが。

                        ※

批評という言葉は、もともと非常に厚かましい言葉です。

批判の意味だとしても、「俺がおまえに難癖をつけてやる」

評価の意味だとしても、「俺がおまえを価値づけてやる」

という意味の言葉になってしまう。

ですので、批評という言葉の取り扱いについては、厳重に注意すべきだ、という確信が根底にあります。

私はある時期から、ネット上で歌会をしたり、評をするのをほとんど辞めました。

美しい作品は、ほんとうは作品のままであってほしい。
「批評」という汚い言葉で、汚さないでおいたほうがいい。

その辺で散見される作品というのは、「既視感がありますね」と言ったら、一撃で終わるようなものばかりですし、「良い歌ですね」といったら、それで終わるようなものです。

下手をすると「自己模倣」というとてつもない言い方が出てきてしまうので、批評の言葉については厳重に注意すべきだと考えています。

そのくらい、短歌というのは同案多数が多いものだと思います。その同案多数の成功ぶりを問うのが批評なのか、というと、私は必ずしもそのような見解を持っていません。

私がその作品について行う最高の賛辞は、「批評する言葉がない」という言葉だと考え ます。

私が今まで読んできた短歌のなかで、自分の経験上にほとんどないもの。

安易に、「良い歌ですね。既視感がありますね。」と口を差し挟むのを憚られるもの。

そのような作品は、短歌の世界では口語の歌も、文語の歌も、一握りなのです。

いくら勉強をしたところで、99%以上、人から「良い歌ですね」と言われるような歌しか作れない私の経験から言わせてもらうと、

短歌そのものも、「新しいか」ではなく、とりあえず「掲載される場」に対するなんらかの差異化が測られるのか、という基準で、自分の歌を決めてしまうことが多いです。

そのうちの一握りでも、「新しさ」に近づいていればいいのかな、という感触です。

                        ※

さて、「批評」と言う言葉の前提を確認しました。

要するに、「短歌の批評」というのはあくまで二次的なものに過ぎないということです。

作品が前提にあり、その上で過去の自分の短歌体験と照らし合わせて、どういう方向 性を持った歌なのか、どこでインパクトを狙っているのか、あるいは狙っていないのか、といった凹凸を確認していくぐらいのことしか、その場の一首評ではできないでしょう。

ところが、同じ「評」でも、これが「時評」になると話が違ってきますし、「解釈」となると全く違う。同じ「歌人」が書いた文章でも、「時評」なのか、「解釈」なのか「連作評」なのか、それとも「評論」なのかは、おそらく全然異なるタイプのものです。

ましてや、エッセイを求められることもあります。

その都度、私は文体を適宜選択します。

専門的な読者を前提とするのに、「である調」でないとおかしいのかな。

全く短歌のことを知らない読者について書くときに、いきなり「である調」はおかしい。江田浩司氏も、そのあたりのことは心得ておいでだと拝読しました。

その上で、もっとも困難なものが「評論」という話になります。

私の時評と、江田氏の連載「評論」を比較していただいても、その差は明確になるでしょう。

江田氏はおそらく「評論」を本になる前提で書いている節がある。

何度か、江田氏はご自身の評論を「○/○日、改訂」

という形で書き上げていらっしゃいますが、それは、評論を形のあるものに自分のなかで推敲していって、最終的には出版という形で世に問う、ということを既に前提とされているのではないでしょうか。

私も、「評論集」を出せ、という話になったら、本になることを前提に文章をまとめるでしょう。

しかし、私のこの時評は、そもそも「本になる前提」がない。

予測不可能な未来に向けて、迷走しながら書いているというのが、本心なのです。

                        ※

最近の歌人は「評論」が書けない。という話は、いつから始まったのでしょうか。

実は私自身も、「評論」という言葉の意味を捉えかねているという節があります。

「評論」に必要なことは、三種類の方向性がどうやらあると私は考えます。

川本千栄氏が述べているように、「論旨がしっかりしていて、きわめて構築的に、順序 よく文章を並べていること」

松村由利子氏が述べているように、「批評用語に統一性があること」

あるいは、同様に穂村弘氏、内山晶太氏も私は尊敬していますが、「換喩性があり、伝播可能な批評用語を評論のなかに組み込んでいること」

も、「面白い評論」を書くために必要な作業でしょう。

しかし、今回の江田氏の評論を拝読してもっとも思ったことが、「自分が一般的だと思っている批評用語が相手に通じるのか」をしっかりと確認すること。

要するに、補注、脚注といった丁寧な作業を、最低でも一章に対して、7つ以上は つける必要があること。

というのを、前提にしていかなければならないと改めて思いました。

用語、論旨、オリジナリティ、そして注や引用といった、共通用語をしっかり伝えていこうという4つの「論文の」用件が揃って、はじめて「評論」になるのではないでしょうか?

                        ※

私がこれまで評論を書く際に意識してきたことは、おそらくこの「批評」と「論文」 をくっつけた作業になります。

つまり、

「自分自身が好きな歌人の評論を書く際に、それが信仰告白になってしまう点をまず懐疑的にとらなければならない」

「批評、評価などということはそもそもおこがましい」

「そもそも短歌とは「好き」「嫌い」にしかならない」

「どうしてこの歌人が好きとされるのか、あるいはどうしてこの歌人が嫌いとされるのか」

その点を、その作品が「好き」な読者の、背景の文化的な文脈から逆算して、好きな読者にはこういう傾向がある。嫌いな読者にはこういう傾向がある。

ということを、客観的に分析しなければならないのではないか。

ということです。

自分がその作者に対して、好きな部分があれば、自分を客観的にみて、思い当たる節がないかどうかを考える。

自分がその作者にあまり関心がなかったら、その作者に好かれている読者が好きそうな文化(あえていろんな意味でのカルチャーといいましょう)をよく掘り下げて、「こういう人に好かれている短歌なのだ」ということを念頭におきながら評論を書くということです。

その前提があった上での、自分の論文の批評用語や、オリジナリティを追求していくのが、「評論」だと考えています。

                        ※

今回のご反論で、江田浩司氏がお怒りになっている内容で、実は一番当てはまるのはどこか、という話になってしまうんですが、極めて個人的にわかりやすいのは、 「おわりに」と「第9章」です。

あと、それから第8章、第7章と、第6章と、後ろからこの評論を読んでいったほうが面白い。そこには、柄谷行人、ポールヴァレリーの自動書記の考え方、寺山修司の円環的な方法の影響圏の離脱、といった示唆に富む指摘が数多くなされているからです。

「おわりに」を見ていきましょう。

ここでは、江田氏が落ち着いて、結論を先に述べていただいています。

「山中智恵子の初期テクストの持つ「言葉(ロゴス)」と韻律の魔力は、散文化と物語性、そして「私語り」から遠く離れたものである。その意味では、容易に近づきがたい詩的達成として鮮烈な言語世界を構築している。短歌のリアリティーの在りかを経験的共感に置いているかぎり、山中の初期テクストに内在するリアリティーは理解 しがたく、永久に難解なテクストとして敬して遠ざける風潮が続くだろう」p169

くしくも江田氏が、「風潮」という言葉を使っていますが、要するに山中智恵子氏のテクストが敬して遠ざけられる「風潮」を再現させようとする批評のあり方というのは、私のようなすなわち「経験的共感」をベースにした批評のあり方とは全く異なるものです。

私はひねくれ者なので、自分が歌を出すときに関してはこの「経験的共感」というものから全く違う世界を毎回作ろう作ろうとしている。

しかし、評論に関して言えば、「経験的共感」から書き起こす意外に方法がないではないか。という考え方です。

「秀歌性」という言い方も私は基本的に懐疑的ですが、この「詩的達成」という言い方もちょっと私にはかなり懐疑的に写る。

さらに次の項目で江田氏がおっしゃっている、テクストの「言葉(ロゴス)」自体が一回性の現象として獲得しているリアリティー」とは、なんでしょうか。

これは、山中智恵子ではなくても、誰でも「言葉に向かうとき」、その都度その都度、作者自身が体現しているリアリティーではないか。

と考えます。

「読み手を無視している」と私は申し上げましたが、これは嘘ではありません。

なぜなら、江田浩司氏が、短歌における「受容理論」(ヴォルフガング・イーザー)という考え方を完全に無視しているからです。

人間は文章を書くときや、短歌を書くとき、それは詩を書くときもそうでしょうが、誰でも「不確定な未来へ向けて」文章や歌や詩を書いているのです。

そこに(言葉(ロゴス)ではなく)、言葉の一回性があるかといえば、誰でもあるだろう。

という話になります。

それが「読み手」にとって、「一回的な体験なのかどうか」ということのほうが貴重で、短歌は同じ歌を何度も読んでいると暗謡ができるようになると同時に、「あの一回的な感動」のようなものがだんだん薄れていく経験を、みなさんはされていないでしょうか?

私は最初、枡野浩一さんの短歌に「感動」しましたが、今、同じ短歌を読んで「感動」で きるか、と言えば、おそらくできないと思う。

ただ、10年後ぐらいにもう一度読み返したら、なんだか瑞々しいものに写る可能性がある。

私は映画を学生時代かなり見ていました。東宝の特撮映画から、ゴダールの「気違いピエロ」まで(字幕付きですが)。かなり、神経をすり減らして、2時間とか1時間30分といった時間を費やしてきました。

で、様々な映画監督(レオス・カラックスやルキノ・ヴィスコンティまで)を新しく知ることの興奮は、何回も体験しました。

で、しばらく映画を見ていなかった。

そこで、私は昔まったくくだらないと思っていた「BABE」を10年ぶりぐらいにみて、涙を流したのです。

これは、映画や小説をある時期から全く読んでいなくて、突然、「勧善懲悪」や「成長物語」のような、単純な文法でいきなり来られると、思わず感動してしまう。ということだと思います。

同じような構造が、短歌を作って読んでいる渦中には、存在するんじゃないかな、と考えています。

ご存じのとおり、短歌は読み手と書き手がほぼ同一、という非常に特異な分野です。

年齢を重ねるにつれて、作り方が変わっていかないという話ではそもそもない。

読書体験を重ねていけば、その短歌の文法はいずれにしても変わっていかざるをえないでしょう。

短歌の文法(57577)に慣れていくにつれて、そこからどうやってぎりぎりのラインを狙っていこうか、と考えていっているのが、私の作歌法ですが、このような体験は、歌を作る人間なら、誰しも持つ経験なのではないでしょうか。

第9章がわかりやすかったのは、山中の初期テクストから、中期のテクストになるにつれて、どのように「韻律性」と一時空白の問題を処理していったか、というある種の成長物語として読めるからです。

第8章、第7章、第6章と後ろから順に読んでいくと面白いというのは、まさに江田氏が自ら御指摘されています。

「テクスト分析には初めから決まった形があるわけではない。テクストが自ずから評者を通してある形に至らしめるのである。もちろんそこには評者の利害のコンテクストが作用し、評者によってテクストの分析に差異が生まれる。」

これはむしろ、江田氏自身にも決まった形があるのではなく、江田氏自身が「山中智恵子」という作者に向かい合うにつれて、その分析や方法を、次第に深化させていったからではないか。

と考えます。

江田氏はこの分析を「序論である」と結論づけておられますが、江田氏自身の山中智恵子へのアプローチの方法が、連載評論のなかでどんどん深化し、複雑になっていくのだから、当然、私の文章を読まれる「現時点」の江田氏の結論は、この連載を当初書いた2001年よりは、深まっているのが当然と言えば当然の話ではないかと考えます。

ここから江田氏の議論をより発展的に展開していくとすれば、江田氏が「体験の一回性から来るリアリティー」を、どうやって現代の「風潮」のなかで再現させて行こうとするのか、まさにベンヤミンの言う「複製技術時代の芸術」が全般的になっているような現在の状況のなかで。

江田氏のおっしゃるように、短歌の「方法の分析」だけでそれは本当に可能なのか。

ということは、私も考えていかなければならないと思いました。

                        ※

私の「批評とは何か」についての意見表明は以上になります。

補記として、江田氏が「わけがわからない」とお怒りになっている部分にいくつか応答させていただきたいと思います。

私が恣意的な誤読をしているとすれば、私がこの評論集を、専門用語をもう一回再検証しながら、頭から読んでいってしまったからです。

そこで「間テクスト性」という言葉をもう一度考えて、「これは補注をしなければ だめだ」

と考え、「間テクスト性」のもともとの意味に私は立ち返るべく、クリスティヴァを熱心に再読しました。

そうすると、江田氏は「私の使っている間テクスト性は一般的な間テクスト性で、クリスティヴァとは関係がない」とおっしゃる。

一体、「一般的な」間テクスト性とは、どのような書物から受容された間テクスト性なのか、はっきり補注をつけていただきたかった。

それがないと、第1章の分析を、素直に受け止めることは困難でした。「おわりに」で、「クリスティヴァに似ている」とはっきり書いてあるので、私はそのまま、クリスティヴァを読みました。素直に。

この第1章から第4章に到る分析は、さすがに読者を混乱させていると表現されても仕方がないのではないか、と私は思います。

私が素朴なマルクス主義的言語観と評したのは、江田氏の「考え方」ではなく、「振る舞い」や「書き方」の部分です。

第9章で最初に、「第1章では不十分だった」と自己批判をされておられる。

その上で、第1章から真面目に読んでいった読者を、切り捨てる。

その振る舞いは、往年の日本のマルクス主義者たちの左翼機関誌のありように似てるのではないか、と私は直感して、そう申し上げたのです。

なんで「不十分だ」と最後で自己批判するなら、そこで不十分な第1章を残したのか。まさか、江田氏の方法が後半で深化していく様子を、読者に追体験してほしかった、と仰るのでしょうか。

「フランス的」は、それとは違った意味ですが、「あきらかにヴァレリーや、クリスティヴァが出てくるテクスト」をフランス的と単純に考えるのは無理はないでしょう。

これは私の印象批評です。

江田氏がおっしゃるように、「恣意的な誤読で時評の読者に間違った誤解をもたらすような読み方は辞めて欲しい」と言うのであれば、なんで「誤読」を誘うような書き方をしているのか。

結局、「評論の書き手」が一番正しくて、偉いのか?? 

それは、江田氏の信仰告白だからではないか。あるいは、権威主義に陥っているのではないか。

そこで怒られても、私は生産的な議論ができるとは思いません。

私は、今回、かなり丁寧に文章を書きました。

これで誰にも伝わっていなかったら、私の書き手としての才能も、そこまでだということになりましょう。 私は、これからしばらく休載期間に入ります。

その間に、文章の修行をもうすこし積んで、読者のみなさまにわかりやすい文章を提供できるように、心がけるつもりです。

それでは、しばらくお休みさせていただく、私のわがままをどうぞお許しください。

注:この文章はネット上での読みやすさを考慮して、補注は一切つけておりません。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞  2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事

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