短歌の純響社

短歌時評 西巻真
フランス的な表層か、単に皮相的なのか。――江田氏への応答

純響社さんの短歌時評、3回目になります。江田浩司氏より、真摯かつ丁寧なお言葉(短歌の批評について考えてみませんか――川本千栄への問いかけ、補記。)をいただき、感謝の念に堪えません。私は若輩で、至らぬ点も多々あるかと思いますが、よろしくお願いいたします。

江田氏の連載評論を拝読し、江田氏の仰るように、短歌の批評は詩の批評より確実に難解であると感じることは、私も多々あります。先日たまたま90年代に創刊された「九」の北川透氏の創刊号(1996年9月.梓書院発行)のエッセイ(「三枚の木の葉と葡萄」)を読んでいましたが、詩人の固有名詞は数多く登場するのに、肝心の詩そのものがどこにも引用されていない。吉岡実、松浦寿輝といった固有名は多々存在し、それに対する批判らしき隠喩は数多く施されているのに、肝心の詩そのものはどこにも見あたらない。このような批評は、詩の世界に共通する特徴であろうということを、私も先日、ある詩人の会合に出席して、確認したことがあります。

その意味で、最近特集が組まれた「レ・パピエ・シアンU」(2010年3月号)の「現代詩を読む」の特集は、歌人というか、詩の批評を何も知らない読者にとって非常に親切なものでした。キタダヒロヒコ氏が、葛原妙子氏の短歌から示唆を受けた小笠原鳥類氏の詩そのものを引用し、筆勢、筆圧といった批評用語を用いて読みの示唆を行う。また、大辻隆弘氏は、三角みづ紀氏の詩をとりあげ、この詩のこの部分をこう感じた、という原初的で素朴な読みを、詩に対して展開されていると感じられたからです。

ちょっと議論を拡散させてしまいがちかな、という反省は、ここで私が「レ・パピエ・シアンU」について言及する際もあります。これは江田氏への応答としては申し訳ありませんが、「時評」という文章の性質上、そうならざるを得ないという確信があってのことです。私が江田氏の文章に対して、「フランス的」とあえて断言したのも、そのような意図に基づく恣意的な「評」でありました。

「時評」とは、文字通り時間に対する評です。つまり、短歌の世界の時間に対する「評」ということになります。「ネット時評」の場合、印刷媒体での評と異なり、その速時性とレスポンスの速さが最も大きな特徴です。

不定期連載という性質も、私にとっては有利になると考えています。極めて即時的な反応を、重大な問題が発生したと思われるときに瞬時に告知することができるからです。評に必要なものは、その「時」や、「テクスト」に対するクリエイティヴィティでありましょう。実際、青磁社の時評で松村由利子氏がこの問題に関連して私と江田氏に対して一文を寄せていただいたこと、このような特性が、ネットという空間に対する一つのクリエイティブな対話になっていると思い、私は非常に嬉しく感じました。

私は「短歌時評」という言葉にあえてこだわり、極めて「時評」的な文章を、そしてインターネットを日々チェックする読者層に向けて発信しようと言う意図を持って、この時評のご依頼を受けました。まず、そのことはご承知おき下さい。穂村弘氏や内山晶太氏の批評用語の問題は、問題提起として有効でありましょうし、時評であることを念頭に置いた目配りであります。

前置きが長くなりましたが、ここからが江田氏への応答になります。

江田氏が私への疑問としていくつかの点を上げていただきました。

>拙著を批判するのならばその方法と分析の結果を具体的に取り上げるべきであって、「テクスト論」の一般的な見解を援用しても何ら批判にはならない。西巻の時評から引用する。

>これは日本でテクスト論が一般化する前段階の、初期のフランス系のテクスト論者が述べていたような「表層との戯れ」と言い換えてもいいんでしょうか。

>「表層との戯れ」という意味をもう一度確認して、拙著との関係性を明確にしてもらいたい。このままでは具体的な関係性が見えてこない。私は拙著から「表層との戯れ」という言葉は導き出せないと思っているが、西巻真には確信があるのだろう。

私に確信があるとすると、江田氏の今回の山中智恵子氏へのアプローチがやはり「私にはつまらなかった」という一点になりましょう。具体的に、江田氏のアプローチを検証していってみましょう。

残念ながら短歌の一首の読みとは違い、評論の読みは膨大な労力を要するので、発端となった川本千栄氏のこの文章から出発することにしましょう。

「短歌が「私性」の文学である以上、一首の中の言葉としての一人称は特別な存在として特権的な位置を与えられている。一人称の「われ」を核とした言葉の階層化が、一首の中で行われているのである。つまり、一人称を中心に求心的に言葉は構成される。一人称が短歌という詩型の中で言葉のヒエラルキーの頂点に立つとき、統一的な安定したイメージを提供することができる。それは語彙の難解さや比喩の高踏さから招来する「読み」の困難さとは、別次元の問題である。また、一人称が直接「他者」を指すものであろうと、言葉のヒエラルキーは成立する。さらに、一人称そのものの「像」にカオスを含んでいる場合にも、一定の「保留」は必要であるが、言葉の階層化は行われているだろう。」((江田浩司:『私は言葉だつた』より。:以下、この文献からの引用は「同文献」と略記する:p16)

この文章は、この一文だけ取り出すと一見「難解な」ように見えますが、それほど難解なことは言っていません。その1ページ前に、江田氏が岡井隆氏の『現代短歌入門』を参照しながら「短歌における「私性」の問題は、どこまでも短歌創作の核としてつきまとってくる問題である」…(同文献:p15))と述べているように、「言葉のヒエラルキー」とは、「短歌が私性を中心とした文学である」ということを、をかなり抽象度の高い言葉で説明しなおしているということでしょう。つまり、短歌は「私」を中心とした階層化の呪縛から逃れることは難しい、ということです。それが「私」以外の誰かを中心とした一首があったとしても、私も大好きな長谷川真理子(現:ほしの真尾)氏のこの一首のように、主体が誰なのかはっきりしない「=像にカオスを含んでいる」場合にも。

・鳥の正面衝突(音楽のやうに帽子を変へる)鳥の側面衝突(もつとも新しい記憶)(長谷川真理子)

さて、問題は、第一章における江田氏の山中智恵子氏への分析の動機付けになっているこの言挙げが、実際の分析で、どれほど「面白く」分析されているか、という一点になります。

「山中の初期テクストの方法論を考える場合、一人称の問題は、「私性」へと集約させるだけではなく、「他者性」を含む、総合的な観点から追究されなければならないだろう。」(同文献:p17)

おそらく紙幅と余力があまりないので、とりあえず第二章の具体的な分析に入ったところから、話を始めさせていただきたいと思いますが、

「洪水伝説」は、タイトルが示すように、『旧約聖書』「創世記」の洪水伝説、また、ギルガメッシュ叙事詩の洪水伝説とに間テクスト性を持つ連作である。そのテクストは、山中の内的な詩的原風景や戦後のネガティヴな社会性が、洪水伝説の世界と融合して構築されていると想像される」(同文献:p20)

江田氏は前提として「間テクスト性」という概念を山中智恵子の短歌に対して用いられておられます。これはもちろん、江田氏もあとがきで述べておられるとおり、おそらく江田氏が影響を受けているであろうジュリア・クリスティヴァが提唱した「相互テクスト性(intertextualite)=テクスト連関」(訳語は、ジュリア・クリスティヴァ/原田邦夫訳 『記号の解体学セメイオチケ1』せりか書房1983年より、以下引用も当該文献を使用する)を翻案したものであろうと解釈できるのですが、原典となるジュリア・クリスティヴァが、一体どういうコンテクストのなかでこの「相互テクスト性」を提唱したのか、は確認しておいたほうがいいでしょう。

「さまざまなジャンル(テクスト)における言葉の特有のあり方を、(文学的な)知的操作のさまざまな様態を表わす単位〔能記〕として確立することによって、詩の分析は、今日の「人文」諸科学の肝所(かんどころ)に、すなわち言語(思考の現実的実践)と空間(さまざまな差異の接合によって意味作用がかたちをなす厚み)との交錯点に据えられる。言葉のあり方を研究することとは、(意味素の複合態としての)この言葉が文のなかの他の言葉とさまざまに結びつくその結びつき方を研究することであり、さらにいっそう大きなシークエンスという結合のレヴェルでも同じ機能(関係)を見出すことである。言語における詩的機能を空間的に把握しようとするなら、まずもって、意味素集合と詩的シークエンス言語のさまざまな操作が実現されてゆくテクスト空間の三つの次元を明確にしなければならない。その三つの次元とは、書く主体、その受け手、外部のテクスト(対話における三つの要素)である。したがって、言葉のあり方は次のように定義される。(a)水平的に見れば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属している。(b)垂直的に見れば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文学資料の全体へと向けられている。
しかし書物の言説の宇宙においては、受け手はもっぱら言説それ自体としてそこに含まれている。したがって、受け手は、作家が自分自身のテクストを書くときに照合するあの別な言説(別な書物)と融合している。
それゆえ、水平の軸(主体−受け手)と垂直の軸(テクスト−コンテクスト)は合致しているのであって、その結果ひとつの重大なことが明らかになる。それは、言葉(テクスト)はいくつもの言葉(テクスト)の交錯であり、そこには少なくとももうひとつの言葉(テクスト)が読み取れる、ということである。それにバフチーンはこの二つの軸を、それぞれ対話および対立するものの併存(anbivalence=両面価値性)と呼ぶのであるが、明確には区別していない。しかし、この厳密さの欠如は、むしろバフチーンによって文学理論のなかにはじめて導入された発見を示している。すなわち、どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もうひとつの別なテクストの吸収と変形にほかならないという発見である。相互主体性という考え方にかわって、相互テクスト性〔intertextualite=テクスト連関〕という考え方が定着する。そして詩的言語は少なくとも二重のものとして読み取られる。)
このように、テクストの最小単位としての言葉のあり方は、構造モデル〔テクスト〕を文化的(歴史的)環境に結びつける媒介項であると同時に、通時態を共時態(文学構造)に変換する調整項でもあることがわかる。このあり方という観念時態によって、言葉に拡がりが生じる。(以下略)」
(ジュリア・クリスティヴァ『記号の解体学セメイオチケ1』p.59-61傍点、略注等はインターネット上の表記の限界もあり、筆者判断で除外した)

さて、やや無理やりな形で該当部分を全て引用してしまいましたが、「どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もうひとつの別なテクストの吸収と変形に他ならない」 という部分は重要でしょう。間テクスト性とは、本来、言葉(テクスト)を「様々な引用のモザイク」として見る見方であり、テクスト(織物)という概念から派生していくものを考えると、同時代の(横の)テクスト(詩・小説・俳句などの他の文学作品や、山中氏のテクストの批判、受容など)、そして、過去の(縦の)テクスト(過去の文学作品や、他ジャンルの言説の、山中氏の受容)の引用のモザイクを考えていったほうが自由度が高いわけです。さらにまた、バルト的な言い方をすれば、何も言表は文学だけにこだわらないわけで、テクストとは、同時代的なあらゆる現象「文化、ファッション、映画、新聞、言説など」のモザイクである、という言い方ができます。そもそも、クリスティヴァの議論は、短歌という詩形を前提にせずに、書物単位で詩をテクストとして認め、それと他のテクストとの相互テクスト性を考えるというより大きな議論に展開していったはずです。(その後の「言葉と対話、カーニヴァル性」といった議論を参照)
   江田氏は短歌という詩形がそもそも歴史、文化的にどういう環境に結びつけられるのか、といった議論も展開せず、いきなり一首をテクストと断言し、連作ごとのつながりの間に「間テクスト性」が認められる(同文献p20)というような前提で、議論を展開されているようですが、これは危険な誤用かもしれません。

もちろん、江田氏が、「洪水伝説」を読んで、旧訳聖書とに間テクスト性が指摘できる、あるいは、「靖国神社や戦後の英霊を想起させる」といった指摘は、「間テクスト性」の指摘としては一見何も問題はないかのように思える。少なくとも一つ以上のテクストとの間に、「間テクスト性」が証明されていれば特に問題はない、と考えてもいいのですから。その意味で、重要な指摘であることは間違いないでしょう。

しかし、山中智恵子氏の短歌を一読して、なんとなく「間テクスト性」という言葉を使わなくても、「この革命という語は同時代的には安保があったのかな」「戦争の影響があったのかな」「洪水伝説は、聖書の影響を受けてそうだな」というくらいのことは、印象批評でも十分言えてしまうレベルの指摘なのではないか、という疑義は私のなかから逃れられないのです。

間テクスト性という言葉を批評用語として使うのであれば、「この山中のテクストは旧訳聖書を参照しているが、他にも同時代に山中のような間テクスト性を発現した文学テクストはなかったのか」「あるいは、文学に限らず伝記的事実でもいいから、山中氏が参照していた文学作品はどこにあったのか。他のジャンルでの連関性はどうか。」 といった形で、より山中智恵子氏の「引用のモザイク」を実証的に、多様にしていく作業が江田氏には課せられていたのではなかったのか、という指摘がどうしても私の口から出てきてしまうのです。

無論、分析方法は一義的ではありませんので、第2章の「空間格子」という初期テクストの分析に江田氏がかけた労力を一切否定するつもりはありませんし、この評論の眼目は、むしろ後半のほうにあり、『言語にとって美とは何か』を引用しながら、言葉の本質的な現前性を問う江田氏の姿勢を評価すべきだ、という声に、私は一定の賛意を表するつもりです。

しかし、その上で申し上げますが、江田氏の結論を一つ一つ見ていると、どうも江田氏個人の山中智恵子氏に対する詩的感動が、何にも普遍化されずに「江田氏個人の難解な語彙」のなかに収斂してしまっているのではないか、という点が、どうも私には「つまらなく」感じられてしまうのです。

以下、江田氏の評論のなかで、疑問に思った箇所をいくつか指摘して、今後の議論の展開の端緒とさせていただきましょう。

「そのような山中智恵子の初期の原型的な難解歌に、散文的、意味的な理解を超えて感動する歌人は幾人もいる。その感動、あるいは衝撃は、かならずしも自分の短歌に対する価値観と触れ合うことがない場合でさえ、絶対的な詩的体験として避けようもなく訪れる。まさに、それこそ、山中の短歌の持つ「言葉(ロゴス)の力なのではないだろうか (同文献p67)」

「山中智恵子の初期テクストは、表現のメタレベルにおける複数の「他者」との対話によって、一首の内部に創造される言語世界であり、「音楽」を聴く場合のように外部へと開かれていく。それゆえ、その言語世界からは読者個々の様々な資質に即応した快さが与えられる。 山中の初期テクストは、外部へのコミュニケーションが初めから前提にされているものではない。そこで機能する「対話の重層性」は、「意味」を伝達することを本質的に目的とするものではなく、「言葉(ロゴス)」そのものが露出することを目的化する(同文献115p)」

私が問題にしたいのは、結局、江田氏が後記で述べていた、「山中を詩的霊感に満ちた巫女的な歌人」から開放するという目的が、結局、フランス系のテクスト論の言葉に全部置き換わっただけで、ある種の「言葉(ロゴス)」の絶対性、たとえば、「絶対的な詩的体験」のような非常にヒエラルキーに満ちた結論に到達してしまっているのではないか、という点です。

「言葉のヒエラルキー」=いわゆる短歌の私性から「山中智恵子」を開放する、という目的は結構でしょう。

しかし、それが難解な言語によって別の形のヒエラルキーに置き換わっただけではないか。「読者の絶対的な詩的体験」、それを言ってしまうと、どうも分析そのものが神がかってしまうような気がするのですが、いかがでしょう。

「フランス的な表層との戯れ」。これは私のほうが言い過ぎましたが、何か「短歌」という言葉のヒエラルキーから開放しようとすると、今度は「言葉(ロゴス)」という詩的体験のヒエラルキーという結論に達する。

これは、山中のテクストの「霊性」の縮小再生産であり、少なくともヒエラルキーとそれからの開放、というようなきわめて素朴なマルクス主義の言語観で、ヴァレリーや吉本隆明を引用してきているのではないか、という感触が拭えなかったので、私はそれを「皮相的」だと感じました。

さて、江田さんへのこの議論は、完全に空中戦の模様を呈してきたのではないか、という疑問を、これを書きながら憂慮しています。つまり、一首や連作の読みを離れて、お互いの言語観に対する一方的な価値観のぶつけあいのような様相を呈してきてしまうのではないか、ということです。

私は次の時評ではこのような混戦状態から一時的に身を引き、江田氏が私に問うてきた、もっとも重大な問題、

>批評とは何か

について、お答えしなければならないと思います。

それでは、これをもって、江田氏への応答については、ひとまず休憩いたします。

よろしくお願いいたします。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞  2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事

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