短歌の純響社

短歌時評 西巻真
評論に求めることって何ですか?

純響社さんの短歌時評、2回目になります。もし何もなければ、もう少し、専門の短歌の読者の方を意識せずに、わかりやすいお話をさせていただきたいと思っていたのですが、さっそく、ネット上でちょっとしたやりとりが始まりました。

「評論のあり方」、「歌壇のあり方」ともリンクする重大な問題なので、私も加わらせていただきます。

川本千栄さんと江田浩司さんの間で始まったちょっとしたやりとり。

川本さんがこう切り出し、
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_100315.html

江田さんもやる気満々らしい。
http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda137.html

うーむ。何からお話したらいいのか、よくわからないですね。
お二方とも非常に尊敬できる論客であり、私のことをよくご存じのお二方だと思うので、敬意と尊敬を込めて、正直に本音を語りましょう。

江田さんの評論『私は言葉だつた−初期山中智恵子論』、私も拝読しました。
最初に江田さんの擁護をしておきます。

まず、江田さんのやられたことは、「歌壇なるもの」の風潮でも何でもなく、そもそも「歌壇」なんてものを全く意識していない、非常に先鋭的な評論である、ということを私自身は感じ、そしてその意図は理解できるということは、申し上げておいたほうがいいでしょう。

その先鋭さはどこにあるのか。

私は江田さんと同じ「未来」の会員ですし、江田さんの理解者でもあるつもりなので、まず江田さんのお話から引用します。江田さんがテクスト分析、そして難解さにこだわる理由というのは、江田さん自身が述べておられるように、

「評論を書く意味とは限りなくテクストに近づくことであり、そのための難解さを否定したのでは批評は成立し得ない。誤解を恐れずに言う。批評は読者のために、その立場に立って書かれるものではなく、あくまでもテクストのために書かれるものである。批評とはテクストと評者との対話である。」

江田浩司「短歌の批評について考えてみませんか――川本千栄への問いかけ。」より

つまり、江田さんは、(「テクスト」をわかりやすく言い換えると「読む対象となる本」のことですが、)批評の意義とは、「テクスト」と評者の間に何も介在してはならない、つまりはテクストを「そのまま受け取って」そこからはみ出してくるものを 「そのまま」受け取ればいい。もう一つ付け加えれば、そのテクストのイメージをテクストの内部で構築主義的にとらえ、決して何者にも還元しえない純粋な「分析」を行う。

というスタンスでしょうか。

これは日本でテクスト論が一般化する前段階の、初期のフランス系のテクスト論者が述べていたような「表層との戯れ」と言い換えてもいいんでしょうか。

誤解を恐れずに、はっきりおっしゃってますね。それでは誤解しているかもしれませんが、要約します。

「批評は、批評の読者のためにあるものではない」

この言い方は、とっても先鋭的にも思えますが、テクストを「文字通り、そのまま受け取ること。それをそのまま受け入れ、そのテクストに没入すること」その喜びが、「評論」であるということでしょうか。

しかし、実は、こう言った方法、80年代には流行したんですが、日本では全く一般化しなかったんです。だって、「江田さんの分析を読ませられる読者」を完全に無視してるんだもん。要するに江田さんと「テクスト」が相互に一対一で関わっていればいいのでしょう。

江田さんの分析だって、そもそも「テクスト」なんだから、江田さんの批評の読み手へのサービス精神はどこへいくの?というお話になります。

このあり方は、当然、「歌壇なるもの」ではなく、もうちょっと広くとらえて、現在の文学の世界でも「普及」どころか、「今時こんなことやってた人がいたんだ」というかなりの稀少人種として捉えられるのではないでしょうか?

江田さんのおっしゃりようではないけど、江田さんの評論を一撃で全否定するとすれば、「難解なのはいいけど、そもそも、読んでてもつまんないじゃん、この分析。読み手を無視してるじゃないか。いまさら何やってるの?」ということになります。

私のなかでのテクスト論の定義は、日本で一般化した前田愛の『都市空間の中の文学』や、石原千秋、小森陽一らが広めた、きわめてオーソドックスなテクスト論をベースにテクストと読者の関係を考えています。
もちろん全面的に「その通り」受け入れているわけではありません。私なりのアレンジも多少、入っていますが。

つまり、近代以降の日本文学、ひいては日本語が、どのような形で読者に受容されたのか、あるいはそのテクストが、どのような文化的文脈を背景に現在の読者に受け入れられる要素があるのか。その歴史的な、文化的な文脈をもっとも重視するという立場です。

実は短歌の世界では、国文学ではオーソドックスに普及されているような「テクスト論」でさえもまともにやられていない、というのが実情です。

その辺の事情をすっとばして、「テクスト論」を乗り越えたとか、どうでもいいというようなことを主張するのはあまり好ましい風潮だとは思っていません。

しかし、江田さんの言説に代表されるような、時代遅れの、今さら感のある「テクスト論」が短歌の世界で先鋭的になっちゃうことが一番、短歌にとっても危機なんじゃないの?

と、正直思いますね。

その上で、川本さんにも一言。

もうちょっとちゃんと、「わかりやすく」お話しようと思っているんですが、江田さんのやってることを解説しようとすると、わかりにくいものをわかりやすくしても、もうほんと、専門的でわかりにくいお話になってしまうんです。

申し訳ありません。

でも、そういうお話でいうと、川本さんの時評も全然「わかりやすく」はないのです。

「わかりやすさ」だけで言ったら、たとえば穂村弘さんの『短歌の友人』はものすごくわかりやすいじゃないですか。

最近あちこちで見受けられる穂村さん発の「短歌のOSの変化」とか、内山晶太さんが最近また「短歌現代」で新たな用語を開発したらしいですが、「サプリメント化した世界」(「短歌現代」2010年3月号)とか。

こういった批評用語は、正直、内容の善し悪しは置いておいて、キャッチ−でわかりやすいですよね。

川本さんの時評の文章から引用させていただきましょう。

「難解な事柄を難解なまま提示するのでは評論を書く意味はない。難解な事柄であっても、論旨を明快にし、文章を吟味・整理し、読者の立場に立って分かりやすく提示してこそ評論を書く意味がある。分かりやすい文章は、書くのが簡単なように見えるが、実は全く逆で、書く側に多くのことを要請するのだ。だからこそ、読者の側もそれを読んで、今まで理解出来なかったことが理解出来るという、読む喜びを持つのではないだろうか。」

川本千栄「評論に求めること」より

これ、時評を読まないふつうの短歌好きの方が読んだらもしかすると目がまわるかもしれない文章ですよ。
確かに川本さんの文章は、論旨は明快です。

それはすばらしい。

しかし、用語はものすごくかたくるしいですよね。

今、短歌の世界に蔓延しているのは、むしろ、こんな「かたっくるしい文章は嫌だ」と言う風潮なんじゃないですか?

だから、サプリメント化とか、OSの変化とか、様々なたとえを使って「うまいこと言った」的な批評用語が続出してるんじゃないでしょうか?

この辺の問題を、江田さんや川本さんがどうお考えになられているかというのを率直にお伺いしたいところです。また、多くの皆様にも、考えていただきたい問題でもあります。

私自身の意見は、次の時評などでおりおりに述べさせていただきますが、とりあえず川本さん、噛みついているところが全然違いますよ。ということだけはご指摘させていただきたい、と思います。

どうも、失礼いたしました。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞  2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事

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