短歌の純響社

短歌時評 西巻真
枡野浩一と私性

枡野浩一をあらためて取り上げようという動きが徐々に拡がってきているようだ。確かに枡野浩一ほど、歌人として名前が知られている存在でありながら、冷静に短歌上の評価をしにくい歌人は類例がないだろう。

枡野自身の、商業出版で成果を上げようというモチベーション、あるいはストイックなまでの「歌壇」への拒否反応、枡野の短歌がもともと持っているある種の特性なども影響して、枡野浩一は必要以上に短歌界から「無視」されているように見える。

「歌壇」というのはかなり属人的な要素が強く残っている場所で、総合誌を経由して「歌壇」に参入するためには、結社が必要であったり、なんらかの賞が必要だったりするというある認識があるようだ。

そうした磁場を枡野が過剰に意識しすぎたことで、枡野をめぐる議論は、いつも「歌壇的」かそうではないか、というつまらない政治的な議論に矮小化されてしまう。

おそらく若手歌人のなかでは、今枡野を忌避している歌人など存在しないであろうし、むしろ枡野が果たした役割のある部分が、その後の歌葉新人賞や短歌ヴァーサス、ケータイ短歌などに受け継がれたことをみると、2000年代の短歌において枡野が果たした役割は無視はしてはいけないだろう。

                ※

枡野浩一の仕事のなかで私が直接的に影響を受けたのは「かんたん短歌ブログ」という短歌投稿ブログだった。

私が短歌を始めた5年前は、このかんたん短歌ブログと、笹公人のJWAVEでの投稿ブログが、短歌を始めた初心者の受け皿のようになっていて、今でもその影響下で活動を続ける歌人は多く存在している。

加藤千恵、佐藤真由美といった歌人たちは文庫本が出るほど名前が売れた歌人になったが、「かんたん短歌ブログ」からも、既に枡野浩一の薫陶を強く受けた歌人が何人か育っている。

宇都宮敦が歌葉新人賞の次席になったことを初めとして、近年電子書籍歌集を出版した佐々木あらら、歌集『平熱ボタン』を出した伊勢谷小枝子、そして「猫歌人」として活動をする仁尾智など、ひと世代前の「華やかな商業出版デビュー」とは異なった形で、枡野浩一の直接の影響を受けて育った歌人は、脈々と活動しているのである。

枡野浩一という歌人は、現代でも「かんたん短歌の作り方」を始めとした入門書によって、
なお多くの歌人に影響を与え続けている。これをもし「無視」する、あるいは「知らない」
という態度をとるとするなら、それはこれからの短歌を、特に口語における短歌の可能性における反動となってしまうのではないか。

私なりの枡野浩一についての分析を行ってみよう。

               ※

枡野の短歌の鑑賞はほとんどと言っていいほどなされていないが、今もっとも蓋然性が高い歌評として、荻原裕幸の言及をあげてみる。

荻原は、枡野浩一の作品を「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自身の言葉だと錯覚するような場所で共感を誘発する文体」と評している。

枡野の代表歌を上げてみよう。

・かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない

・こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう

・好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君

こうした歌は私が短歌を始めて間もないころ多くの示唆を受けた歌である。私は最初、こういった歌に最初あこがれて短歌を作り始めたのだが、しかし、私自身に、そもそもこういう歌を作る能力がなかったことに気付いた。

同じ時期に枡野浩一の短歌ブログに投稿し、笹公人の短歌ブログにも投稿していたが、枡野の短歌ブログで歌を作ろうとするとどうしても自分のなかに無理がでてくる。

なぜなら、これらの歌には「私」が極めて薄いからだ。

枡野自身、「渋谷の電光掲示板に流れるような歌をつくりたい」と言っていたように、これらの歌は強固なまでに「私」が消去されている。あるいは、一読してすぐに解凍ができる
「私性」で構成されている。

一首目

「かなしみはだれのものでもありがちで〜」

という歌に細かい解説は不要だろう。具体的な事実を一切省き、かなりひろい範囲の人たちにも共感ができる「心情」を歌ったものになっている。むしろ「私」の個人的な「かなしみ」を歌うことに対するアンチテーゼのように歌をつくることで、かえって作者のかなしみが浮き出るような作りのように思える。

「こんなにもふざけた今日〜」の歌からは、やはり具体的な事実は一切省かれている。「どんな明日でもありうるだろう」という感慨は、私たちが毎日「こんなにもふざけた今日」を暮らしていることへの感慨として発せられる言葉だ。かなりストレートに歌われている。

「好きだった雨」の歌に関して言うと、この「君」と「あのころ」の部分に何を読者が想像しても差し支えない作りになっているように見えるが、この「あのころ」は映画のワンシーンのように受け入れて問題ない「あのころ」だろう。これらが受け入れやすいのは、私たちがポップスや歌謡曲のなかで同じような「あのころ」を何度も見てきたからにほかならない。

枡野の代表的な短歌の場合、それを解凍するために特別なキーワードやセンテンスは必要とされない。むしろ、枡野の短歌は受け入れやすいために、逆に物足りなさを感じるというのは一般的な枡野の短歌の評価に思えるが、私から見ればこれらの短歌は十分に2000年代の重要な短歌の代表作のように見える。

どのような形であれ、これらの短歌には心情が詠われており、その「こころ」の部分において誰も作者を否定的にとらえることなどできはしないからだ。

・おぼろげな記憶によれば「フリッパーズギター」はたしか別れの言葉

・「レモネードレイン」と呼べば酸性雨すらも静かに叙情していく

枡野の短歌がもつ良質の抒情性があらわれた歌である。

荻原のいう「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自身の言葉だと錯覚するような場所で共感を誘発する文体」とは、かなり大雑把にまとめると、「わがままな私」のいない文体のことであると言い換えてもよい。

例えば私などが作る短歌は、私そのものを強固に打ち出したり、体験の壮絶性や自分なりのものの見方といったものを強く意識して歌を作る。自分の特殊性や孤独感を歌にぶつけることで、短歌を制作する原動力にしている部分がある。その結果として、暗喩が増えていき、口語の語尾の薄さを表現の密度で補うような作りになることが多い。

しかし、枡野の口語短歌はそういった短歌の作り方とは全く違う。

仮に短歌と私性の問題として考えようとすると、おそらくそういった短歌の特別な「私性」を極端に廃してできたものが枡野の短歌であり、それだからこそ逆に枡野の影響を受ける歌人が多い理由にもなるのではないか。

枡野の短歌や歌論は、短歌を大衆化させたのではなく、「特別な体験」などない「ふつう」の感覚で短歌を作ろうとする人たちのための方法論として広く認知されたという言い方のほうが正確だろう。

その結果として、「喩性」は、すべて排される。
口語の語尾のうすさを補う方法として喩性というある種のレトリックに頼らない、というのは口語短歌を作る上で重要な技法の一つであろう。

 

                ※

書くことで落ちこんだなら書くことで立ちなおるしかないんじゃないか?

この夢をあきらめるのに必要な「あと一年」を過ごし始める

わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに

葬式は生きるわれらのためにある 君を片づけ生きていくため

塩酸をうすめたものが希塩酸ならば希望はうすめた望み

 

枡野浩一「短歌」集『ますの。』からひいたが、枡野の短歌には切実さが全くないわけではない。しかし、それを暗喩を極端に排除してあくまで言葉の展開や意外性のみで勝負してくるため、枡野の短歌は、一見すると方法論がないように見えるのかもしれない。

以前私は枡野から、商業雑誌に掲載可能にするような歌をかんたん短歌ブログでは目指していると聞いたことがあった。

枡野は確かに体系的な「レトリック」や「技法」といった教え方を必要とするわけではない。むしろそれを埋めるべく目指されているのは、「商業誌に掲載可能な感受性か」という基準値なのだ。

このことは、実は短歌的にも大きな意味を持っている。もともと「短歌」とは、自由な感受性や個人の自由な体験を刻印するために歌われるもので、感受性が判断の基準になることは少ない。しかし、枡野はこの「短歌」の常識をある意味ひっくり返している。

体験や自由な感受性は必要ではなく、むしろ「体験や感受性」を読者のために合わせる、
つまり極端に「私性」の外側で歌を作るという作業である。

以前シンポジウムで、プロとして短歌を作ると発言していた枡野のプロ意識とは、この「私」を殺して出来るだけ多くの人に歌を届けようというものだった。歌人としては違和感を感じる部分かも知れないが、しかし、このことはたとえばライティングなどの世界では極めてまっとうな意識であるように思われる。

こうした意識を短歌にそのまま持ち込んだとき、私たちが「私らしさ」や私性と呼んでいるものは大きくゆらぐのではないか。

その意味で枡野の短歌は、むしろ最初に「口語で私性を捨て去った歌人」として再評価されるべきではないかと感じている。

込み入った議論も含んでいるが、おおむね枡野が残した功績を私なりに敷衍すると以上のようになる。

今後、枡野浩一をめぐって活発な議論がなされることを期待している。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞 2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事
※ブログ→ ダストテイル−短歌と散文のブログ−


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