短歌の純響社

短歌時評 西巻真
おだやかな歌人は生の肯定に行き着くか−都築直子歌集『淡緑湖』

紹介としてはやや遅くなってしまった感があるが、都築直子氏の第二歌集『淡緑湖』(本阿弥書店)を読む。

歌集に書かれている範囲で都築氏の略歴を紹介すると、都築氏は1955年生まれ。中部短歌会を経て日本歌人社に入社、故春日井健氏に師事。第一歌集『青層圏』が現代歌人協会賞と日本歌人クラブ賞を同時受賞している。

『青層圏』では自身の有するスカイダイビング体験を歌にしたり、仄聞では小説でも受賞歴があるという情報もあるが、こういった情報は今回の歌集の略歴や歌そのものからは排除されている。

余計な情報はいいから、ただ歌だけを見てほしい、という意志をあらわしものだろう。第二歌集として誠実な歌集の作りである。

歌集には特に章立ては行われておらず、一連一連、連作の名前とともに10首前後の歌が並んでいる。手にとってから、時間をかけて落ち着いて、じっくりと読むと味わいの出てくるよい歌集のように思った。

読み下しながら連作を手にとっていくと

「空の手前」

という一群の連作の前で立ち止まる。

・てのひらのみづ蛇口より吊るされてわれは朝(あした)のすがほを洗ふ

・竹群(たかむら)は首(かうべ)かうべを垂れてをり傘さして知る雨のはげしさ

・傘下げて夏の階段のぼりゆけば空の手前で左へ折れつ

一首目はおそらく洗顔の風景を歌った歌。一般的には蛇口から出てくる水をてのひらで受け止める場面だろうが、この歌では「てのひらのみづ蛇口より吊るされて」と、認識が見事に逆転している。主客の転倒を認識的にとらえた歌である。

二首目は、竹林が雨に戦いでいる様子を上の句で想起させ、下の句で今度は傘をさして音が出ている場面を想起させる。上の句の様子を「音」といういわば別次元の感覚で捉えた歌であり、知覚を言葉にするうまさが表れている。


三首目はおだやかなリリシズムを感じさせる歌。「空の手前」という言葉にリリシズムを感じるが、上の句の「傘下げて」という言い方にも注目したい。「下げて」と言っているからには日傘ではなく雨傘であろうか。一首のなかで一見地味な言葉使いや「省略」が、読者に強い想像力を働かせる。

このような安定した技法はわずかな時間で感覚的に出来るものではない。定型と地道に向き合って行くことで始めて成立するものだろう。

歌集全体を通じて、一見地味だが高度な描写、修辞能力、そしてリリシズムに流れたときのセンスの良さを感じる。

「リリシズムに流れたときのセンス」とは、たとえば「火」や「ひかり」の歌を見てみればわかる。いずれも現代短歌ではやや自動化された歌語になってしまっているが、それだけに穏当な表現では歌語に負けてしまう。ある種の喩的な修辞のセンスと言っていいだろう。

・火の起源われは知らねどあかときのそらやはらかに火の色を持つ

・火のおもて火のうらがはと思ふまで青ふかくあり紫陽花領は

・釣糸を垂れてまひるのふるびとはひかりの底の石としてある

・音立てて電車ゆくとき隧道の壁にひかりの肌目(きめ)あらはれぬ

現代では「歌語」として「火」や「ひかり」といったやや美的な歌語が高度に自動化されてしまっているために、なかなか「センスよく」決めるのは難しいと感じる。

これは個人の感覚の問題になってしまうのだが、特に「紫陽花領」の歌などはかなり決まっているのではなかろうか。

思えば、歌集の表題となった「淡緑湖」も本来は

・五十九階より見れば朝もやの都市はしづかな淡緑の湖

というやや喩的に立ち上がってくる歌の象形だった。

現代の文語短歌の技術的な水準点は、

「こうしたやや喩的な象形の文体と、写実的で省略を重視する歌語のいずれも丹念に作ることができる」というあたりになるのであろうか。

もちろん、都築氏は後者の「写実的で感覚・叙景を重視する」歌も非常に巧みに作ることができ、そこに微細な情感を込める歌いぶりも十分に獲得している。

・くるしみのイエスの顔を見てゐしがふとも絵の具の隆起見てをり

・ためらはぬ速度を持ちて風船は雲のもすそに釣りあげられつ

・てのひらを出せば細雨はやみてをりてのひらの坂をぬらさぬしづく

・いちまいの布を裁ちたる左右(さう)の手のかさなるときにつめたさ違ふ

・よこむきに落ちてゐる蠅 人界は死の日をえらぶ方法(よすが)ありけり

一首目、何気ない歌のように思えるが「視線の移動」によってある感情の力強さを表現し歌だ。「くるしみのイエス」の顔から「隆起」という言葉に歌の焦点があわされることによって、作者の感情にある種の生命感が満ちていく様子がなまなまと表現されている。

二首目、これも独特の主客転倒を果たした歌。あるいは天地が逆転している歌といえようか。重力を離れて行く様子が、逆に「天から引っ張られていくのだ」とした認識の転倒が興味深いだけでなく、「ためらはぬ」という言葉によって不思議な擬人化がなされる。

三首目、これはかなりこまやかに文語の味わいをいかした歌で、雨そのものを「細雨」と表現することによってより繊細な景の味わいを出し、さらには「てのひら」に焦点を当てて「しづく」へと落ち着く。ここにあふれるのは上句の景の繊細さと下句の「しづく」への視点であろう。かなりミクロな部分に焦点が置かれている。

四首目はこれも非常にこまかい身体感覚を歌った歌だ。自分自身の手の温度が違うということは、常に目を閉じている状態でもないかぎり気付かないかもしれない。それをつめたさ違うと表現できた非常に細やかな身体感覚に注目したい。

五首目は強い断言の死の歌。上句のあおむけの蠅から、いきなり「人界は死の日を選ぶ方法」へと飛躍することで一首が衝迫力をもった断言を獲得している。

こういった歌を後者の秀歌として上げたい。

歌集全体の印象としては、連作単位でほとんど歌材にぶれが見られない。
ほとんどが日常の視界の範囲に入る生活詠が淡々ととつづられており、実験作や派手な異色作というものが全くない。唯一異動があるとするとおそらく88ページあたりに差し挟まれるタイでの生活の歌であるが、この連作のみ目次では100ページまでと区切られている。

この歌集のなかで、このタイでの生活詠の前と後でやや作者の心境が変化したように感じるのは私だけだろうか。

100ページ以降の歌にはある種の感覚的なやわらかさが加わり、生活にも余裕が出てきているように感じた。

「雨」という連作ではこんな歌がある。

・とある夜は窓べりで飲む紹興酒(シャオシンチュウ) 金星ひとつコップに添へて

歌としてよくできた歌とはいえないかもしれないが、ある余裕のある生活実感を感じられる歌だ。都築氏の歌が本来もっているやさしさ、対象へのおだやかな目線、そして生を肯定する態度が、この余裕とともに後半では前景に表われてくるように感じた。

・海だつた日々のよろこび告げたきかわたしのうへに雨が来てゐる

・ここにゐるだけでいいのよ火の色の帽子かぶつて蝋燭が言ふ

「海だつた日々のよろこび」は海水が蒸発して雲になり雨になると言う認識をうまく肯定的に表現し得ているし、「ここにゐるだけでいいのよ」という上の句にはおだやかな肯定がある。

こういった歌は技法を越えて、強い生存肯定の意思表示の歌として好感をもって読みたい。

都築氏の第三歌集は独特の認識感覚、細部への微細な着目を通じて、さらにこれから普遍的な生への明るさを帯びるものになるのだろうか。都築氏のこれからの歩みに期待している。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞 2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事
※ブログ→ ダストテイル−短歌と散文のブログ−


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