短歌の純響社

短歌時評 西巻真
読み替えられる短歌史−「アークレポート」「pool」を読む

同時期に刊行された短歌同人誌「アークレポート」3号、「pool」7号を読む。

「アークレポート」は北海道の裄V美晴氏が中心となって号を進めており、「pool」は五島諭氏を発行人として刊行されている。いずれも気鋭の若手歌人があつまった同人誌であり、若い世代の動きを概括する意味でも彼らの継続は誠に意義深い。

今号の「アークレポート」は、非常に紹介的な側面の強い雑誌となっている。

編集方針として

「読んで役に立つ」

「わかりやすい」

という姿勢が貫かれていて、2000年代短歌の参考資料となるガイドブックを作ろうと考えた部分が多いように思う。

今号の特集は、「ゼロ年代を問い直す」。一見、全くまとまりがなかったように見える2000年代の短歌の動きがきわめて概括的に整理されており、非常にわかりやすい。

裄V氏の「ゼロ年代短歌私史」は、現在知りうる限りで、もっとも新しい短歌事象の史的事実のまとめであろう。いわゆる「若手」と無意識のうちに認知されている歌人たちを多く輩出することになった、「うたう作品賞」、「短歌WAVE」の創刊、「歌葉新人賞」という短歌事象から、2000年代の歌人論、筑紫歌壇賞といった取り組みまで過不足なくまとめられている。裄V氏の調査能力の高さと事象の取り組みへのスタンスは、こういった仕事に徹すると非常に手際がよく、バランスがとれているように感じる。

山田航氏の総論「文学的実験としての歌葉新人賞」は、どちらかというと事象を丹念に追っていくというスタイルで、歌葉新人賞の史的事実をまとめた文章。

「歌葉新人賞」は笹井宏之、斉藤斎藤に代表される短歌的にも傑出した個性の持ち主を輩出した賞として位置づけられるだろうが、山田氏の論はどちらかというとそれを概括的に、過去の短歌史との連続性によってみようとする。

笹井宏之が「未来」に入会したことを相良宏との関連性によって見ることは、やや歌壇史に寄り添いすぎな視点であって大いに疑問であるし、結論部の「リアリズムの更新」といった山田氏の提起した命題が、はたして歌葉新人賞の受賞作だけで言えるのかという点は、個々の作者の作品そのものの解説だけよむとやや大雑把に感じる。全体的に荒さの目立つ評論だと感じたが、氏の「実直な史家」としての才能は十分感じられた。これからの広範な短歌読解の積み重ねと、誠実な取り組みに今後も期待したい。

                    ※

pool7号でなんといっても注目されるのは、松澤俊二氏がレポートを担当した「プロレタリア短歌が照らし出す3つの限界」であろう。

氏はプロレタリア短歌という旧来の短歌史観では黙殺されがちな問題を、社会システムとの連関性において見ようとしている。

「天皇制や資本主義社会に対する批判は現在の歌壇でも出来ていないのではないか。現代の社会詠とされる歌がどれだけ批評として有効なのか。題材としても、現代歌人は好んで歌いたがらない」

(プロレタリア短歌が時代とともに現代短歌全集から外されていった背景に言及して)

「名歌を名歌として価値づける場の構造、システムから排除されて、読まれなくなる。それは人々の読みの体系から外されていくということです」

という問題意識から生まれたプロレタリア短歌の3つの限界は、私なりに要約すると

「プロレタリア短歌」の限界ではなく、「プロレタリア短歌を取り巻いた状況の限界」

つまり、

歌壇(抒情、写実重視)、
国家、
政治的利用をされてきた近代短歌そのもの、

の限界

であると松澤氏は逆に述べているように思われる。

確かに「プロレタリア短歌」は、他のジャンルで行われた「プロレタリア文学」のイデオロギーをそのまま短歌に注入しようとした極めてソビエト/ レーニン的な文学運動であると現代では漠然と理解されているように思われるし、実際には「大衆」が求めていた「文学」とは全く違った「政治手段」的な側面をもった運動であったことも、松澤氏の指摘の通りであろう。

ただ、この種の「運動」が、「短歌とは何か」、「文学とは何か」という本質的な問題を常に揺さぶられるような緊迫感を与えた意味を見過ごしてはならないだろう。

確かに私たちは「現代短歌全集」を底本であるかのように短歌を読み、近代短歌史をあたかもアプリオリな「短歌史」であるかのように学び、現代においては、ある種の「歌壇史観」的なものを「短歌史」として素直に受け入れている側面もある。

もともと短歌以上に、歴史というものがドラスティックなものである。価値観が変われば短歌史は大きく変わる。個人個人の価値観によって、短歌史はそれぞれ異なったものでなければならない。

しかし、その割には、短歌史は「勉強する」ものとして受け入れられすぎている。現在からみた過去の短歌史の批判的考察を行うような取り組みはなかなかやろうとしてもできるものではない。

そのもどかしさを埋めるべきターニングポイントとして、昭和初期のプロレタリア短歌に対する社会システム的な側面からの松澤氏の論究の意義は大きい。私たちは「抒情」とか「短歌的」という言葉で、あまりにも乱暴に短歌を批評しすぎてはいないか、と松澤氏は指摘しているように感じた。

この松澤氏の論究と対立軸を読んで、私は「短歌史」を学ぶのではなく、「短歌」というジャンルにおける「短歌的な史観」にそもそもどのような問題があるのか、ということを強く考えさせざるをえなかった。

引き続き「史観」がもたらす短歌全体の問題に、今年は取り組んでみたい。

                         ※

特集だけとりあげると片手落ちになるので、作品についても若干補足しておこう。

「アークレポート」の短歌作品は、非常に「スタンダード」で読みやすい連作が並ぶ、といっていい。

佐野書恵氏「卒業」。

おそらく12月から3月にかけてのある北海道の一家の家族の心象を風景を下敷きにしつつ歌う。

・つつましき冬芽を頼みに北国の冬の長きを木々は越したり

・感情を遠心分離器にかけてその上澄みの向うに夕日

・たぶん大人になつたらわかるきりもなく川の面に降り続く雪

・重力に逆らふという生き方を選びたり遠く鳥類の粗は

2首目は、子供の心象だろう。いずれもおおらかに気持ちを言葉にする歌いぶりと、細やかな発見が充実している。

北辻千展氏「cDNAライブラリー」。は、やはり家族のこと、研究のことが歌われている充実した一連。

・滅菌器の修理がされる時の間を培地は菌の花を咲かせる

・関西に関西なりの寒さありわれら無言で病室を出る

・CNNの取材を受けたホームレス日本のことを英語で話す

・グーグルのストリートビューに映る祖母肯く顔がぼかされており

1首目にみられる、「滅菌器」という言葉の勢いのいい言葉使いや、「無言で〜出る」、「顔がぼかされており」という一見地味だが丁寧に感情を込めた言葉使いが味わい深い。

・ほど近く海あるゆえに美しく傾斜してゐるひとの躰は(阿部久美)

・解凍の途中の毛糸の手袋は未練に満ちて黒ずんだ赤(真狩浪子)

・ぐうの手に握りしめたる手をひらき大事にしている埃をはらう(樋口智子)

など、連作も充実していて読み答えがあった。

                       ※

 

poolの歌人たちは打って変わって口語文体の水準点を越えようとする試みが数多く目についた。

堂園昌彦氏

・燦々と月の光の差す道で僕が自分に手渡す桔梗

・生きるから花粉まみれで生きるからあなたへ鮮やかな本と棚

・心の奇跡を書いて眠って目が覚めて作家は雪が降る窓を見る

内省的でロマンティシズムに溢れる作風が今回も磨きがかかっている。堂園の試みは、口語文体のもつある脆弱さを、強いロマンティシズムと表現の濃密さで乗り越えようとしている作品であると言えるだろう。

中田有里氏

・誰からも話しかけられないことを前提にして自転車に乗る

・点滴で治しましょうと寝ころんで透明な液大量に

・2センチの深さの25メートルプールのような2人の間

リリシズムとそれと拮抗する淡いロマンティシズムの混交が読む者に心地よい。ときおり不思議な韻律のぶれが見られ、その平叙文と韻律が拮抗して、平叙文が勝つような歌の練り方をしている作者だと感じる。

二又千文氏

・三月の空は明るい背泳ののちにシェークスピアを読みたし

・たっぷりと陽を浴びたのち本を読む横顔は初夏(はつなつ)のくだもの

生命感あふれる歌いぶりで読む者に好感を与える。

五島諭氏

・夢のやわらかい部分を潜りぬけ荒れた部分にひろう富籤

・蝶や黄金虫の羽が好きだろう肥沃さがあなたのいいとこだろう

やや斜にかまえたところから不思議な言葉づかいを見せる作風である。

他にも取り上げたい歌人は多くいるが、poolの作品は分量が多いため割愛する。2冊とも作品の質、分量ともに手にとって損のない同人誌だと感じた。

 

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞 2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事

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