短歌の純響社

短歌時評 西巻真
アラブに日本を見ること―齋藤芳生『桃花水を待つ』

先日、「現代短歌に突破口はあるのか」という問いかけを聞いて、私は逆に危機感を持った。

果たして現代短歌が、それほど閉塞した状況にあるのか、突破せざるをえないほど何か深刻な問題を抱えているのか、正直そのような言い回しそのものも、いたく小規模な短歌メディアに振り回されたいたく小規模な問題意識ではないのか。

もしものごとが閉塞している状況にあるとするなら、その責任は個々の人間でどうにかなるような問題ではなく、単純に考えれば構造的な問題であるだろうし、歌詠みの仕事というのはよく考えればいたく単純なもので、(もし私が歌詠みであるならだが)、ただ場所や環境を問わずに歌をつくり、歌を読むことを繰り返していくしかないといういたくシンプルな結論に落ち着く。

他人のことをとやかく言っても仕方がないし、周りの空気を気にしてどうこうというような小規模なことを気にするよりも、短歌を学び、歌集を読んで、自分の歌に生かすということを繰り返していくしかない。

今年は「周りの空気を読んで時評を書く」と言うことをしないで、ただ、歌集を読んで分析してそれを提示するという極めてシンプルなことをしようと思う。

今まではルールがなかったので、自分で勝手に文章のルールを作る。

1 歌集歌書を読むときに、他の批評文を参照しない。
2 できるだけ多くの短歌本をとりあげる
3 できる限り特定のコミュニティにこだわらない

この3点だ。

したがって「時評」という表題をあえて無視して、ただ単純に歌を読んで雑誌を読んで歌を作るということをいたく反復的にやるということを今年の目標にする。

正直、いい評論があったから良い歌ができたということは一切ないかもしれない。ただ「良い歌をつくる」ということだけでものをいうと、評論は特に必要ない。

「短歌」に評論は必要だろうが、歌人に批評は必要ない。

必要なのはむしろ「歌」で、「歌」ができている限り次の歌が生まれる。

その反復がある限り、決して状況は閉塞しないし、「歌」が途切れることもないだろう。問題があるとすると、「批評」によって歌人が鍛えられるというような私自身の「結社的思い込み」そのもののほうではないか。

いたくシンプルに結論を出すとすると、もともと「短歌の仕組み」の問題にすぎないことをあたかも「短歌というジャンルの問題」であるかのように誤解してきた私が悪い、ということになる。仕組みとジャンルは違う。

短歌をどうしていくか、ということは歌人が考えることではない。

良い歌があるよ

と紹介することだけが歌を読む人に必要なことだ。

小難しい理屈はよそう。

ということで、さっそく去年読んだ歌集からそそくさと分析にかかる。

                    

去年は角川短歌賞受賞者の歌集を二冊読んだ。

一冊は齋藤芳生著『桃花水を待つ』(角川学芸出版 2700円)
http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201008000209

もう一冊は光森裕樹著『鈴を産むひばり』(港の人社 2000円)
http://www.minatonohito.jp/products/104_01.html

二冊同時に取り上げるというのはちょっと無理があるので、出た順番通りに、今回は齋藤芳生の『桃花水を待つ』から取り上げる。

齋藤氏の経歴を分かる限りで把握すると、日本語教師として3年間アラブ首長国連邦のアブダビに在住しておられたそうだが、不思議なことに氏の作品からはアブダビの香りらしきものが一切してこない。まごうことなく感じるのは、アブダビらしさ、というより、日本ら しさであって、歌集から立ち上がってくる女性の姿は、どこをどう読んでも美しい日本の女性の姿だ。

歌集は三部で構成されている。

Tは、どうやら日本の様子。
U
が一番ボリュームが会って、アブダビでの生活。
V
はアブダビから故郷の福島に帰ってきた歌だろうか。

生き方から素直に言葉が立ち上がってくる歌が非常に多くて、齋藤氏が短歌という器に盛り込もうとしたものは、どうやらアブダビの魅力ではなくてやはり日本の良さとか、日本の生活感覚だったような気がする。この辺は暮らしてみないとわからないので想像するしかないのだが、齋藤氏の場合、アブダビという土地を日本という器に入れようとした感覚が強く出ている。
 
歌を見ていこう。

・ぽたぽたと始まる会話バス亭の雨を最後の触媒として

・星の数ほどドアが並んで(誰もいない)仕掛け絵本のようだ、東京

・介護施設に花の名多くつけられてあおい、しゃくなげ、祖母はひまわり

・私を催眠にかけるため並ぶ百円ショップの黄色いうさぎ

・川よお前を見つめて立てば私の身体を満たしゆく桃花水

・四季劇場「海」の拍手を逃れたるさかなとなりて夕暮れをのむ

Tから引いてみたこれらの歌は、口語的なことばの魅力を生かして一気に感覚を拡げる勢いのある歌で、とても綺麗な立ち歌。どれも美しいが、1・2首目は「ぽたぽた」、「仕掛け絵本」という言葉の素直な配置が美しい。

3首目、4首目はとても批評性のある歌。

「介護施設に花の名〜」の3首目。微妙に介護と言う言葉に批評性を漂わせながらぽんぽんぽんと花が連続して出てきて、それを勢いで読ませるあたりに口語的な感触の良さが出ていてうまいと感じる。

5首目、6首目は身体感覚が歌い込まれた。私の体を満たしゆく桃花水、さかなとなりて、という言葉使いは素直だがすごく美しい。

Uから引いてみよう。

・アブダビの家庭菜園土の濃き一画に濃き薄荷が茂る

・この国の自転車も放置されていて砂に洗われつつ錆びており

・ドバイよドバイ「ほうらいわんこっちゃない」ともう何ヶ国語で言われたか

・アブダビにもある母子家庭父子家庭 少年が蹴る堅牢な壁

これらの歌で面白いと感じるのは、本来は外国にあるものを日本に持ちかえるという感覚で提示された歌ではなくて、たとえば「家庭菜園」や「父子家庭」、「放置自転車」という言葉は、どちらかというと日本の生活習慣に当てはめてドバイを「理解」したように感じる部分である。

「ほうらいわんこっちゃない」という言葉は、「何ヶ国語」かで言われたにもかかわらず、どうやら日本のしかも話し言葉だ。

齋藤氏のアブダビ滞在は生活面では大変だったのだろうが、ところどころにアラブに日本の習慣を発見して

「アラブにもある」

という感覚で歌われたこれらの歌がとても目についた。

「アラブにしかない」、という生活感覚を歌にするという発想ではなくて、あくまで齋藤氏の目は日本の習慣をむいている。

・退屈なアブダビの海月光を呑んでしまった大魚が跳ねる

・アラビアの楽器職人一心に木を削る恋を奏でるための

・ドバイ、すなわちここに至りて大量の砂に呑まれてゆくアラブ馬

これらの歌で歌われているアラビアは、アラビアの生活習慣ではない。楽器職人であり、海であり、アラブ馬であり、どちらかというと習俗というより美しい「景」のほうである。「家庭菜園」、「父子(母子)家庭」、「放置自転車」という言葉であらわされるような 「アラブらしい風俗」をとうとう齋藤氏は歌に読み込まないまま、アラブの生活のシーンが終わる。

齋藤氏は日本語教師という特性上もあるだろうが、アラブを見にいったのではなくて、アラブに日本を教えに行ったのであるから、こういう傾向も当然だろうが、「アラブってどうなってるの」と知りたい日本人の私などから見ると物足りなく感じる。

本当に必要だったのは、アラブに日本を見ることではなくて、アラブをアラブのまま歌にすることだったのではないか。

これらの生活詠でむしろ冴え渡るのは、どちらかというとやはり「外国から帰ってきた日本人がみた日本」の不思議さであり、Vであらわれているような「外から来た日本人」がどうやって日本を見たかという感覚のほうだろう。

・久々に見れば不可思議にっぽんのランドセルはどうして赤いのか

・なまあたたかき日本人のふくらはぎ大量に夜の車道をわたる

・「ニッポンは変な国です、みんなみんな呼吸を止めて歩いています。」

言われてみればその通りなのだが、不思議なところに注目されている異次元感が歌にあらわれている。

Tとはずいぶん様子が異なり、おどろおどろしさがます直球の歌が目につく。

確かに習慣から言うとアラブの女性は「ふくらはぎ」を見せて「大量に夜の車道」をわたったりしないのだろう。

しかし、その当たり前のことを奇妙な身体感覚を持って歌われると、読む側はぞくっとくる。

こういう感覚で歌われた「日本」を私はあまり知らないので、とても怖さを感じるV部に仕上がっていると思う。

齋藤氏の「日本人から見た日本」はとてもおそろしく、刺激的かも知れない。

これからの独特のウイットと全体的に素直で勢いに満ちた日本の歌はこれからも期待できる。

立ち姿の美しい歌が多いので、語感をすごく盗み取りたい歌がとても多くて、歌全体としてはおっと目につく歌が多かった。

西巻真  歌人。1978年生まれ
2007年度未来年間賞受賞 2009年度未来賞受賞

加藤治郎に師事

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