無機物が有機物になる時、世界がめざめる

無機物が有機物になる時、世界がめざめる

通りすがりの郵便ポストや電信柱、マンホールにさえ、ハロー、ニーハオ、コングラチュレーション、お稼ぎけ(甲州弁)・・・と声をかけたくなるような、祝祭感覚につつまれる日がある。幼年時代の日々には織り込まれていた、全知全能のセンサーが、回帰してくる時だ。特別な理由があるわけではない。無機物だって元をただせば、素粒子仲間じゃないか、という思いが弾ける「宇宙的フィーリング・グルービー」なのだ。大人の分別を身に着けてしまうと、うっかり電信柱やマンホールに親愛感をもったりすると「フィーリング・クレージー」と思われかねない。大人になるっていうことは、実社会の規律に従って成功者となることを未来の展望として描き、競争社会を勝ち抜く原理を体得しなさい、ということを学習させられる日々のことだから。そこでは勝組と負組は、幸、不幸とイコールだ、という価値観が強固に持続され、本来備わっていた生命体としての祝祭感覚が、封印されてしまうのだ。 だがマイセルフエナジーに身を任せていると、他者の評価など、どうでもよくなってくる。「何の根拠もなく、理由もなく、すとんと落ちてくる、手つかずの感覚」(直感)の導きに従ってみるだけだ。

すべての偏見から自由になれば、電信柱だってお友達だ。無論、たいていの電信柱は無愛想で、通常、人との会話は成立しない。だいたい電気工事関係者以外、電信柱について真剣に考える人々を想定しにくい。電信柱に愛されたとか、一途に電信柱を愛したといった人の手記も読んだことがない。

4月19日だったか、Eテレの番組「日曜美術館」で、現在水戸美術館で開催されている「山口晃作品展」について、画伯の半年の制作過程が、ドキュメンタリーとして紹介された。江戸や現代を超越したモニュメンタルな風景を、細かに描くことで超越しようとする想像力に驚嘆したが、ここでは電信柱についてだけ感想を記す。展示には、電信柱のオブジェも掲げられているのだが、そこには段差があって、13階段をのぼると、電信柱のセンサーを備えた場所から地上を見下ろすことになる。つまり、電信柱を下から見上げるのは人間目線だが、13階段をのぼって上から眺めると、電信柱目線となって、地上を見下ろすことになる。この時、無機物と有機物が、一瞬にして交流する。

人と電信柱に血流が走るのだ。山口画伯は「電信柱のような、普段は景観の嫌われもののような物でも、観方を変えれば有機物になる。電線には人々の血流が流れている」といった発言をしていて大いに共鳴した。

誰ひとり電信柱を思わぬ日に空の祝祭としての電信柱  雅人

2015年4月29日 | コメントは受け付けていません。 | トラックバックURL |

カテゴリー:コラム

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