花見は暴風雨の日を選んでひとりでするものだ

花見は暴風雨の日を選んでひとりでするものだ

 暴風雨となった四月某日、桜の散り際をみたくなって、近在では桜の名所として知られているK公園に足を運んだ。突風と横なぐりの雨のなかを、通販で購入した「滅多なことでは折れない蝙蝠傘」をかざして歩き続けた。
 公園に至る遊歩道には、強風のため骨の折れたあまたのビニール傘が転がったり飛ばされたりしているのに、人の気配がない。善良なる市民は、骨の折れたビニ傘に変身させられ、吹き飛ばされてしまったのだろう・・・みんな「滅多なことでは折れない蝙蝠傘」を購えばよかったのだ。
 公園に入ると風雨にまみれた桜木たちが、花びらを飛ばされまいと身を竦めつつ、どうしようもなく花びらを散らせていた。
 散華、散華、散華・・・の真っ最中だ。
 路面には濡れた桜花びらが重なりあって、艶めかしいほどに発色している。
 桜花びらは濡れると人間の皮膚の色にもっとも近くなる。
 ヒトの皮膚から滲み出す脂じみた感覚が、濡れ濡れとした桜はなびらの表面から溶け出してやまないが、そこを踏みにじって歩くのは、なにかしら罪深い。
 「さんげさんげさんげ・・」
と呟きつつ、桜吹雪のなかを歩くと、懺悔の花びらも交じりあうようで、そのひとひらひとひらが舌に貼りついては溶けてゆく。唇をすぼめればすぼめるほど、身体がはなびらをあつめる通風孔になって、自分自身が散華化、あるいは懺悔化されてしまいそうだ。なんというほのかな甘さ、そしてほろ苦さ・・・。この季節はずれの暴風雨のためか。ジブンがサクラとなって溶け出して、地べたに吐き出されつつあるのか・・・散華とはナマナマしい肉体感覚を伴うものでもあった。

くちびるをひらけば散華のはなびらが舌に溶けつつ懺悔となりぬる  
                                 雅人

 桜森のメインストリートである「江戸東京建物園前」の広場まで歩くと、黄色い縞々模様の幾つものテントの屋根が、まだ立ち上がらない姿勢のまま蹲り、ひっそりと風雨に耐えていた。あさってから始まる「桜祭り」の準備のためだ。もう桜は散り尽くそうとしているのに、市政に従って忠実に取り行われるのだろう。
 その本部テント設営のために、全身雨合羽の数名の男たちが懸命に動いている。まず本陣を造らなければ何も始まらないのだ、という決意が、男たちの動作から感じられる。だが、台風並みの30メートルに近い風雨が吹き抜けるなか、作業は難航し、支柱を支えようとした男たちは何度もよろけて、シートは地中に崩れ降りた。ばらばらになった世界を組み立て直さなければ、そもそもこの世は始まらないのだ、というように。男たちの雨合羽も風雨で膨れている。それでも何度も挑戦し続けていた。雫を含んだ桜吹雪が飛び散るなかで。
 なんとか本部テントを設営しなければ、桜が咲いていないのに「桜祭り」を開催する、というこの世の現実との辻褄あわせに間に合わないからだ。その隙間を埋めるように、憂愁、あるいは有終の桜花びらたちが、ばたばたばた風雨に煽られ続けるテントの布にへばりつこうとしている。どんなシチュエーションであれ、男たちが全身の筋肉を張りつめさせて、ひとつの作業を完遂させようという行為は神聖で無駄なく美しい。

 永久に組み立てられることのない「桜祭りの本部テント」を永久革命のように作り続ける男たちの皮膚をめがけて桜花びらは散り続ける、べっとりと皮膚の内側にのめりこむように。

 桜の殆どは地上に散り、地上に溜まり続けて、雨水の空間にさざめいた。
 雨水の桜は、公園全体の水びたしの空間に散らばり、入水した人間の脂を浮かべているようにも見える。
 それは人間の皮膚がびっしりと張りつめてはさざめく、仮初の桜湖水だ。この桜湖水を眺めるためにだけ、最後の花見をするためにやって来たという気がしてくる。 

   花見は暴風雨の日にたった一人でするものだ。

 桜並木のど真ん中にある透明な電話ボックスが立ち尽くしていた。濡れた桜花びらが透明硝子にびっしりとこびりついて、それは「桜宇宙」としか呼びようのない小空間となっていて、雨水に浮かぶ桜並木の空間から、ほんの僅か漂っていた。それはこの世からの漂流物として、桜並木の波間を危うく揺らいでいた。
 そこから呼び出し音が響いたのだ。
 びっしりと隙間なく桜花びらの張り付いた電話ボックスに、思わず駆け込み、受話器をとる。誰が、なんのためんかけてきたのか?

 受話器の彼方にはとめどない沈黙の気配が広がるばかりだ。

(びっしりと桜はなびらの張りついた透明な電話ボックスに閉じ込められた経緯については、またいづれ)

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