2013年3月のアーカイブ

木洩れ日師に会う日

 
 誕生日が過ぎて、3月も終わりになると、水と光が楽章のように微妙に交じり合う気配が濃くなって、玉川上水のほとりの小径ばかりを歩くようになる。
 太陽光の旅の途上の姿が、木洩れ日として映し出されて、なぜかなつかしい。
 木洩れ日も私も太陽系の旅人同士だ。 
 すると細胞の奥までつながっている道筋がみえてくる。葉脈という旅の道筋が。私の身体の内側にも葉脈が震えている。樹木と自分は、ひとつづきなので、樹皮やら樹幹やら枝枝やら、たくさんの道を迷わず辿ってゆける。やがて自分も空洞を抱えた樹木になれると信じているから。
 
 木洩れ日師に出会ったのは、そんな玉川上水散策の途上だった。
 浅葱色の麻の上着とズボン、珈琲豆を詰める布袋と見まがう鞄をたすき掛けにして、水色の補虫網のようなものを、ざぱっ、ざばっ、とかざして右往左往している奇妙な男を見かけたのだ。あたりを見回しても虫が飛んでいる気配はなく、ただ水色の網を宙空に向って投げ出しているとしか見えなかったので、思わず声をかけてしまった。

「なにを追いかけているのですか?」
「木洩れ日ですよ」

 なんでそんなことぐらいのことがわからないんだ、という少しイライラした口調で男は答えた。
「わたしは木洩れ日師でね。これから5月にかけてまで、木洩れ日の豊漁期なので忙しいのです、あっ、またみつけた」
 そういうなり男は少年のようにパタパタとした足取りで駆け出し、目に見えない何かに向けて飛んだり跳ねたりして網を振り続けた。やがて男は息を弾ませて私の前に戻り、得意気に告げた。

「ほら、獲れたての木洩れ日です」

 水色の網のなかには、金色や銀色、赤や黄、青、橙色など、様々な色彩の鱗状のものが、ぴちぴちと跳ねていた。
「木洩れ日は拾うのではなく、掬うためにあるのですよ。浮遊するときめきが一瞬色彩になる。それを掬いとるのが木洩れ日師の仕事です。」

 木洩れ日はときめきなのか、それなら掬っても掬っても、なぜてのひらから零れてしまうのか、それはとめどめない悲しみではないのか

 「そうです。とめどない悲しみです。だからそれを掬って解き放つのがわたしの役目でもあります」

 ぎくりとした。私が内心でつぶやいた声に、男が答えたのだから。
 ふだんこの世ならぬことばかり思い続けてきたので、ついに幻影を引き寄せてしまうようになっのか・・・

「少し、さしあげましょう」
「木洩れ日を・・・ですか?」
「試供品、ってやつですかね」

 そういうと男は鞄から、ラムネ色した硝子瓶を取り出した。
「これは太平洋を彷徨っていた漂流壜です。なかには大切な思いが籠められた手紙かなにかが入っていたかも知れないけれど、拾った時は、からっぽでした。
わたしは漂流壜コレクターでもあってね。木洩れ日を入れるにはちょうどいいんです」

 とめどない悲しみを入れるのには、からっぽの透明な漂流物こそ、ふさわしい、ということか・・・

「その通り」

 またしても私の内面のつぶやきを聞きとった男は、網のなかで跳ねていた木漏れ日を素手で掴み取って、漂流壜に流しこんだ。
 木洩れ日は水族館の水槽を回遊する熱帯魚のように、ひとしきり漂流壜の内部を変幻自在に泳ぎ回り、やがて無色透明になっていった。
 

「消えたわけじゃありません。これから灯るのです。どうか真っ暗闇で解き放ってください。それから木洩れ日は夢に浸透しやすいので、取り扱いには十分注意してください」

 水色の網を、さあっさあっさあっ・・・宙空にかざしつつ、木洩れ日師はまたたく間に去っていった。

 3月の木洩れ日は、まだ試供品に過ぎない。成熟した木洩れ陽が獲れる日まで、待ってみるしかないか。

誕生日

 きょう16歳プラスαの誕生日を迎えた。そのαは余生っていうことで、思春期から自分がさほど成長しているとも思えない。けれど産まれてくるっていうのは、凄いことなんだろう。言い伝えによれば、血まみれの袋に包まれたまま夜明け前に、盥のなかに吐き出されたのが、わたしらしい。しばらく呼吸せず、死産かと思われた時、「とんとんとんとん、とんとんって、どこからともなく音がする」と産婆さんが呪文のように繰り返して、背中を叩くと、ようやく産声を発したのだという。父は嬉しくて万歳三唱をしたらしいが、その真意を確かめようもない。父はもうこの世にはいないから。ただ、父が焼かれて、その咽喉仏を拾った時、これが自分の生まれた時、万歳三唱をしてくれた咽喉なんだと思った。
 咽喉仏は笛の形をしていて、楽器のようだった。
 掌に載せれば、全世界のどこにでも鳴り響く咽喉仏・・・それはまた、とんとんとん、という音を籠らせているのだろう。

侍が負けた日

前健は宇宙の彼方に向かって投げている

すべての仕事をうっちゃって、18日午前10時から始まったWBC日本対プエルトリコ戦に見入ってしまった。たちあがり、すばらしい切れのある前田健太の変化球がストライクとして認められない。結果としてそれが勝敗を決めてしまった。ありえない判定の2フォアボールをきっかけとしとて、打ちそこないのタイムリーヒットによって、1点を失ってしまう。しかし前健のフォームの美しさは只者ではない。しなやかな身体のラインが、上半身マッチョのプエルトリコ選手の胸元を切り裂くさまは痛快だった。だから1失点で抑えられたのだ。前健の繊細な投球術は、南米人のおおざっぱなスゥイングを本来なら完璧に押さえられるはずなのだ。二番手の阪神エースの能美は2ランホームランを撃たれてしまったが、最初から危うかった。日本野球の下半身に強い選手の配球が念頭にあったので、胸元の強靭なプエルトリコ選手には、上半身に投げた直球を運ばれてしまったのだ。
 日本選手はスライダーのボール球をひっかけて、ゴロの飛球になるあたりが多かった。阿部ら主力選手の大振りが目立ち、負けるべくして負ける結果を招いたと。
 今、WBCに負けたのを東尾投手コーチが練習日にボートレース場に通ったりとか私的な活動が眼に余り、また投手起用もでたらめだったとかいわれているが、それは次元の違う話しだろう。(もとよりプロ集団だからコーチの個人的動向に左右されるはずはない。ガキじゃあるまいし)
 いちばん批判されているダブルスチールの采配にしろ、「選手の判断に任せた」という山本監督の準決勝の判断は、間違っていなかったと思う。それはこのシリーズが、そういう流れで来た事の直感的な判断だ。それが最悪の結果を招いてしまったとしても、そうすることがリーダーの判断としての必然だったからだ。結果オンリーだけで、この世は進まないのである。
 それはともかく、プエルトルコの選手の半端でない精神を讃えたい。かつて植民地だったカリブ海の島、プロの野球選手になることが大きなスターテスになることが可能になる国であり、多くの少年たちが野球に情熱を注いでいる。

  そのハングリー精神に、侍魂をかかげた驕りが、負けたのだ。

のばら駅まで

・・・のばら、のばら、のばら、終点のばらです。本日の最終電車です・・・

 ガッタン、と電車が揺らめき、目をさました。

・・・あああ、またやってしまった、出版記念会のパーティーでもらったおみやげ袋を抱えたまま、がらんとした車内をきょろきょろみまわした。ついついワインを飲みすぎてしまい、最終電車で帰ると、わけのわからない駅までたどり着いてしまうことも、しばしばなのだ。それで今夜も最終電車に揺られたまま眠ってしまい、見知らぬ駅まで運ばれてしまったのだ。最近は私鉄やら地下鉄線やらが相互乗入れになっていて、うっかりすると、とてつもない場所まで運ばれてしまうのだ・・・けれどいったいここはどこなんだろう、のばら駅なんて聞いたこともないのだが・・・。電車を降りても、なんだか妙に薄暗く、降りる人や駅員らしき姿もみかけない。洞窟のなかを歩いているみたいだから、地下鉄の駅なんだろうか。

 おそるおそるホームを歩いているうちに、前方に、ほのかな光をまとった人影のようなものが、ゆらゆらほのめいて遠ざかろうとしている。海の底で靡いている海草のように。ああ、よかった。あの光についてゆけば駅から出られそうだ。早足で近付くと、ぼんやり光っていたのは、その人がまとっていたフレアスカートの水玉模様で、それは水色の泡となってきらきら輝いていた。その人は歩くというよりふわふわと漂い、やがてすっと浮かびあがり消えかかった。あああ、ちょっとまってえ・・・その人影は階段を駆けのぼるところだったが、フレアスカートをさっとひらめかすと、突然、スカートのなかの水玉模様が、ほろほろとこぼれ落ちてきた。それはシャボン玉のように浮き沈みしつつ、わたしのまわりを漂ったが、一つ消え、二つ消え、三つ消え・・・。やがて最後のひとつが消えかかろうとするのを必死に追いかけ、ようやく両手で包みこむように捕えることができた。するとその水玉は、林檎ほどの大きさになって、水晶玉のように内側から、きらきらと輝きはじた。

 ほっとひと息。やれやれ、この水玉の灯りのおかげで、真っ暗闇の駅に取り残されなくてすみそうだ。その灯りをたよりに地下駅の階段をのぼり、ようやく地上に出ることができたのだ。

 けれどそこは、いちめんの草っぱら!道というものが、どこにもない。

町というものが、ぽっかり消えてしまった世界なのだ。

東西南北雑草ばかり、それが月明かりをあびて果てしなくなびいているばかり。

 しばらくぽかんと口をあけたまま、草っぱらにたちつくす。

のばら駅って、ただの野っ原ってこと?それにしてもフレアスカートの人は、どこに消えてしまったんだろう。

 

「道は自分でみつけるものなのよ」

「え?」

 どこからか声がしたが、あたりには誰もいない。

「ここよ、ここ」

 その声は両てのひらに抱えていた水玉から、ひびいてきた。

 月あかりにかざして、よくみようとのぞきこむと、スカートの襞襞のようなものがひるがえり、つぎの瞬間、水玉のなかに丸ごと呑みこまれていた。

 ふと気がつく水族館の水槽のなかのような、薄水色のひかりが流れる部屋にいた。

「休んでいきなさいな。少しだけ」

 長い髪を靡かせフレアスカートをゆらめかせて、女の人が煉瓦色の菓子皿を抱えて近付いてきた。

「ところでバックからはみ出している壜はなに?」

「ああ、これはおみやげにもらったワインです。ポルトガル産の赤ワインです。・・・飲んでみますか」

 女の人が十秒間に三十回はうなづいたので、わたしはポケットから愛用の抜き取り装置を取り出し、おもむろに先っぽをコルクに挿して、くるくるくるまわし始めた。ああ、この瞬間のときめき、壜に凝縮されたワインの気持ちが開放される束の間が好きで好きでたまらず、ワイン好きになったのだった。コルクを抜く時の、すぅ、っぽん、0,1秒のためいきをついてワインは秘められた思いを、一気に解き放つのである。

 いつのまにか目の前に、天使と星の透かし彫りの入ったワイングラスが二つ並んでいたので、わたしは赤紫色を波立たせて、それぞれのグラスの半分まで注いだ。

「グラスに全部つがないのは、ケチっているわけではなく、香りと色と味がたちのぼるのを感じてもらうためなんですよ。グラスを揺らすとこの世と夢の世界が、ほのかに交じるのです。半分づつね」

 (そういえばこのセリフ、今日のパーティでもいったかな・・・)

「おいしい!体に流れている血とひびきあっているみたい」

「赤ワインは人間の体温にして飲むといいんです。血とおなじだから」

それから注いだり注がれたりしているうちにすっかりいい気持ちになって、体がふわふわしてきた。

 あらためて首をぐるんとひとまわりさせると、窓があるのかないのか、部屋が広いのか狭いのか、さっぱりわからない。部屋全体がふくらんだり縮んだりして呼吸しているようで、とりとめがなくなってくるのだ。部屋の彼方も、ただただ青っぽいばかりで宇宙空間に漂っているようだ。

「あの、ここは、どこなんでしょう」

「人魚の部屋」

「・・・するとあなたは」

「人魚」

 長い金髪に碧眼の瞳、羽衣のようにきらきら靡くブラウス、足下まで隠れるフレアスカート・・・外見はアンティックなフランス人形のようだ。そういえば足は見えず、ふわふわふわっと、地上から少し浮き上がっている感じ・・・人間と人形の中間、その隙間に漂う淡い影のような雰囲気を全身にまとっていた。

 人魚の部屋は、この世では形をもたないので、泡のように縮んだり、海そのものまで広がったりできるようだ。

「海の泡のひとつぶ、あるいは全世界の海が、この部屋なの」

 

 それから人魚は700年以上もひとりぼっちで深海をさまよっていること、時々、この世からはぐれかかっている人を呼び寄せて、この「海の泡つぶの部屋」に招くことがあることを話してくれた。

「私も、もう何十年も人間をやっていますが、両足はあっても、いまだに地に足がつかない感じで、あちらこちらとさまよってしまうんですよ。シャボン玉みたいにね。今日は酔っ払って電車のなかで眠りこけただけですけど」

 推定年令700歳の異性とはこれまで話したことがないので、ヘンなことを口走ってしまったかな、とどぎまぎしました。

 けれど人魚は真剣にうなずいてくれた。

「今いるところがさみしいと、どこまでもどこまでもさまよいたくなるものよ。さみしさというのはすうっすうっと何千回も何万回も、からだをくぐり抜けていって、それでだんだん身軽くなっていける思いなの。さみしければさみしいほど身軽くなって遠くまでいける。それだから何百年も世界中の海をさまよい続けることができるの」

 真っ暗な深海を、ほのかに光りながら、何百年も果てしなくさまよう人魚の姿が浮かんでは消えて、なぜか胸がしくしく痛くなってきた。ポルトガル産ワインを飲みすぎたせいかもしれないが。

「ああ、そうだ。ワインをいただいたお礼に、ファドを唄ってさしあげますわ」

「ファド、知ってたんですか」

「あたりまえよ。何百年も世界中の海を泳いできたんだもの。港にはたくさんの出会いと別れのメロディが入り混じって、海に流れ出しているの。足でステップは踏めないけれど、声でステップできるわ」

 人魚はファドの名曲「海まで」を、深海にまでひびく澄んだ美しい声で唄ってくれました。

  海の底まで 森の奥まで 空の果てまで

  どんな真っ暗闇でも あなたに出会うまで

  さまようしかないのです あなたの名を呼ぶと 灯影が生まれます

  いつも胸の奥でゆらめいている 灯影です

 耳の彼方、目の彼方、唇の彼方から、さざなみが溢れては消えて、ひかりがちりちりと結晶して、シャボン玉のように浮かんで・・・・・

 その泡粒のひとつになりたいとたまらなく思って、うつらうつらしはじめた。

 「めざめてくださいな。ここはひととき休むところ。眠ったらそのまま海の泡とともに消えてしまうわ」

 人魚は心配そうに声をかけて、いいました。

 「これから元の世界にあなたを戻してさしあげます。ひとつ呪文を教えてあげるわ。・・・のばら、のばら、のばら、道になれ、道になれ・・・」

 目をあけると、もとの場所、東西南北どこを見回しても草っぱらにたたずんでいた。真っ暗闇でどこにも道はなく、ただざわざわと草が鳴りひびいているばかり。

 帰りたいところなんて、ほんとうはどこにもなかったんだ、とぼんやりと思っていた。

 それにしても、のばら駅ってどこにあるんだろう。

 駅ごと、人魚ごと、世界が消えてしまったようなさみしさだ–

 それで人魚の教えてくれた「のばらのばらのばら、道になれ道になれ」という呪文を唱えてみると、雲間から月があらわれ、月光をはじいて草は草同士きらめき、道をひらいていってくれた。

 さわさわとなびく草のひびきに導かれてふわりふわりと、なんだか身軽くなって歩き続けることができた。。

 やがて草むらは途切れ、そこは崖っぷちで、海が広がっていた。目をこらすと彼方に大きな白い薔薇のようなものが、ふぅわあと浮かびあがりる。

 月光から届くひかりが、水平線に向けて水銀のように延べられて、ひとすじの道として輝き初めていた。

・・・のばら、のばら、のばら、道になれ、道になれ、道になれ・・・

 

 すると水平線の彼方まで続いていた月光の帯から、無数の白い野ばらの花びらが浮かびあがり、夜空に漂いはじめた。

 海にも空にも、白いのばらが明滅する道が、果てしなく広がろうとしている。

人魚が「のばら、のばら、のばら、道になれ、道になれ」とくちずさみつつ深海のなかを灯影となって泳ぐ姿が、ありありと浮かんだ。

 そしてわたしは何処かにあって何処にもない、のばら駅の入り口に向かって歩きはじめていった。

ダンボール愛

峠の茶屋で閑古鳥を飼いならしつつ、滅多に通らない旅人を心待ちにするあるじ、という気分で、このブログを再開している。
 毎日やたらと歩きまわっては飲んだくれ、時間があまると自室で「ひとり紙芝居」をしているといった日常を過ごしているわけではない。これまで意図的に仕事に関わることは記していないだけだ。昨日はクロネネコヤマトで購入したダンボール15枚を抱えつつ、強風に煽られて路上を転げまわりながら事務所に着いた。純響社として責任編集出版したジャーナリストの本を発送するためだ。瞬間最大風速27メートルを記録したという春の嵐に呑み込まれそうになりつつ、ダンボールを盾にして必死に堪えた。ダンボールを翼にしてどこまでも飛ばされてみたいとも思ったが、本の発送をしないとお金がもらえないのでやめた。きつかったのは、ヤマトで買ったダンボールでは足りないかなと思って、スーパーの裏口にあったダンボール2枚を追加したためだ。「北海道産たまねぎ」と「谷川岳天然水」のダンボールだ。名前が印されることでダンボールにも人格が発生する。きっちりシールで梱包されたヤマトの15枚とは相違して、この二枚のダンボールサマは、北海道とか谷川岳をめざして、やたらと翔びたがる。なんども創意工夫をしながら辿りついたのは、全身全霊でダンボールを抱きかかえることだった。ダンボール愛を形にしたのだ。それはどんな嵐にも打ち勝つことができた。
 10冊、20冊、、30冊、50冊・・・それぞれの注文数に応じて仕分け、発送作業は順調に進んだが、最後に「北海道産たまねぎ」と「谷川岳天然水」のダンボールを使用していいかどうか悩んだ。著者からの注文50冊を入れる大きさは「北海道産たまねぎ」がぴったりなのだが、支払いの件で、やや行き違いが生じてしまっているので「たまねぎ箱」を送るとたまげてしまうのではないかと憂慮する。浄水設備の会社に送る30冊は「谷川岳天然水」がぴったりだが、あまりにあいすぎて、本が水びたしになってしまうのではないか・・・。結局「谷川岳天然水」はOKだが、「北海道産たまねぎ」はインパクトが強すぎるので止めることにした。ダンボールのすべての側面にキャラクターらしい「道産子玉ちゃん」が躍動しているので、このまま送ると本自体がたまねぎ化してしまうと判断したのだ。
 夜になっても強風が続き、身を竦めつつ旧板橋宿の街道に沿って帰る。背中にダンボールの翼がもぞもぞと生まれはじめ、十勝平野だろうが、谷川岳山頂だろうが跳んでいってやるぜっていう気分だ。
私は本日、ダンボール愛を完遂したのだと、世界の中心に向けて叫ぼうと思った。

ひたすら歩く・・クェーサー3C345まで

 最近なにをやっているのかと聞かれたら、「ひたすら歩いています」と応えることにしている。毎日三万歩以上は歩いているだろう。しかも時速6キロ、これはアレキサンダー大王の東方遠征の兵士の速度と同じである。江戸時代の飛脚よりは少し遅いが、戦前の日本陸軍の行軍よりは少し早い程度だ。
 自宅は小平市だが、しばしば新宿方面まで足を延ばす。伸ばし過ぎなのはわかっているが、ウォーキング・ハイになってしまうので止められない。4、5時間はかかるが、孤軍奮闘の達成感はある。誰も褒めてはくれないが。昨日は池袋をめざしてひたすら歩いたが、池袋は甘くはなかった。左右の道筋を誤ったため10キロ以上無駄に歩いてしまい、午前中出発したのに午後4時着にってしまった。青梅街道から新青梅街道へ、なんの変哲もない、アスファルトでコーティングされた武蔵野台地を、ひたすら縦走するだけなので、物見遊山のときめきはない。夢の中を泳いでいるようで風景の方が身体を通過するのだ。自分とは「誰かに夢みられた身体」であり、実体ではないという気が強まってくる。身体という仮初の乗り物に乗って、自分はこの世に漂流しているだけだ。
 ひたすら歩く、とはひたすら夢みる、ことと同義である。
 地球上の孤児であるわたくしが、人工化され尽くした関東ローム層の大地のうえを漂っている・・・歩いているうちにずんずんずんずんさみしなった。アスファルト直下の無数の植物の根、動物の骨たちはどのように息苦しく絡みあっているのか、さみしさとはそこから湧き出して身体に伝わるものだった。ここはかつて原生林だったのだ。

 いつ、地球に漂着したのか? われわれはどこから来たのか?
あたり前の風景のなかに、あたり前でない風景が隠されている。街道、森、水、人、星、宇宙はひとつらなりで、彼方へと続いている。
地球に漂着した身体をありありと感じたくなると、昼夜を問わず歩きたくなるのだ。どこをどう歩こうと世界は謎めいた迷路なのだから。

 街道は血管なのか、自らの血流を遡るように武蔵野台地を踏みしめていくと、校門から小学生たちが解放される時間帯に遭遇する。赤いランドセル、黒い、また青いランドセルが浮遊する。束の間の自由、拳ほどの心臓の鼓動が連なって歩いている。しかし誰ひとり終着点を持たず、明日にはまた退屈極まりない校舎に少年少女たちは集結するのだろう。洞窟、あるいは悩みの兆すランドセルの闇に、蒼穹が呑み込まれている。
 ノンストップで歩き続けることに意味があるので休憩はとらない。足を留めたくなるのは尿意を催した時だけである。ところがトイレ付き公園というのは防犯上の理由からか滅多になく、ずっと我慢して歩き続けるだけである。新青梅街道から目白通りへ、交差点を隔てて名称が変わるだけだが、都心突入という気分が昂揚する。もう4時間以上は歩き続けているが、青梅というローカリティが目白という都市のトレンディに変貌するのを体感出来るのだ。けれど待ったなしの尿意をどうしよう?
 目白通りから、山手通りに左折する。やっと池袋が射程内に入ってきた。水族館を頭上に抱えたサンシャインビルが、蜃気楼のように佇んでいるではないか。曇り空のど真ん中を、水族館から逃れた無数の魚たちが流れ出そうとしている。虹色に鱗を反照させながら。山手通りは、思いがけず空中楼閣のように浮かぶ広い道だった。歩くほどに地上から浮かびあがるロード、その過程でようやくトイレ付き小公園をみつけることが出来た。名前はメモってなかったので、とりあえず如意原自然公園とする。するとトイレの屋根に腰かけて6歳位の女の子が、シャボン玉を、ひたすら吹いていた。いつ、どうやって仮設住宅みたいなトイレの屋根にのぼることができたのか。足下には2歳位年下の弟(らしい)が、シャボン玉を摑まえようと走り回っている。親の姿は見えず、都心にシャボン玉無法地帯が生じているようだ。なぜかここは、自分の乗継駅だと思えた。ここで終わり、ここから始まるなにかが、シャボン玉に託されて、ゆわゆわ漂いはじめていた。「ザボン虹駅」と勝手に名付けて放尿を終え、再出発した。(はやくトイレの屋根から降りて、弟と一緒にシャボン玉にもぐって帰りなさい。ゆあゆあゆあーん、と、サンシャインビル屋上の彼方まで)

それにしても交番が目立つ。交番とは街道沿いに、等間隔に設置されているもので、路地裏には基本的に存在しないようだ。速歩、一心不乱状態で歩いているので挙動不審者として呼び止められることはないが、なにを目的として、どこへ行こうとしているのか、そもそもあなたは何者なのか、と問われても全く答える術を知らない私は、無期懲役を科せられる気がする。子どもの頃は刑事になりたかったのですよ、とだけ言ってひとまず警察官の心証をよくしておこう。それにしても交番にひとりづついる警官は、ただ佇ち尽くしているだけではなく、ひとりづつ口をすぼませて、シャボン玉を飛ばせてほしい。一般市民に安心感を与えるために。柔道、剣道、だけではなく、シャボン玉道だって奥が深いぞ。
 丸井があって放射線状の道路があって、ようやく池袋西口に漂着したようだ。
 「池袋まで」とだけ念じて歩いてきたので、これからどうするのか見当もつかない。なんの目的意識もなく、ただ歩くためにのみ歩いてきたのだ。風景を楽しむのではなく、まして健康のためになんかでウォーキングしているわけじゃない。自分が、この世においていかなる存在であったか、なんて、もうどうでもいい、武蔵野台地を5時間近く疾走してきた、というだけだ、失踪者のように。
広場から駅へと真向かう人々の背中ばかりが、眼前にある。駅の入り口は吸水口、みんなそこ引っぱられているが、目的のない私は逆にはじき出されてしまうような感覚だ。何時間も飲食はしていないので、とりあえず猛烈に咽喉が渇く。マクドナルドでゼロコーラを飲むだけでは癒されない渇き、もうバッカス、アルコールに頼るしかないか。
 「夕弓酒場」というネーミングにひかれて東口駅前の居酒屋に入ってしまう。午後4時というのに満席状態。一人客用のカウンターに坐らされて
「ご新規さん、ウーロンいっちょう!」
 若き女酋長マタハリの遠吠えのような女声が店内にひびきわたる。店長格らしい25歳ぐらいの元渋谷系ギャル風が、店を取り仕切っていることがわかった。アルバイト店員への指示が的確で、かつ容赦がない。
「聞こえないの!あんたの声じゃ。誰がなにを注文するのか、わからないんだよ!」
 意思表示のはっきりしない者は、この世では淘汰されるっていうこと・・なんか自分に言われている気もする。
 ウォーキング大会に参加して一位になったわけではないので、小平から歩きとおしたんですよ、と女酋長に自慢するわけにもいかない。打ち消すことの出来ない思いがあって、ただたすら歩いて来ましたと、誰に告げればいいのだろう。とりあえず、ウコン茶割りを追加する、名物らしき「あきれるほどふわふわ揚げでっせ」とともに。いつもたすきがけにしている黒かばんから、私は宇宙本を取り出す。カバンには宇宙に関わる本しかなく、武蔵野台地と銀河系が直結しているというインスピレーション、宇宙マップを、ここで取り戻すのだ。
 宇宙の絶景、究極に夢見られる場所とは、どこにあるのだろう・・・。
 実年令なんて世間が名付けた仮初のもので、それに沿って命があるわけではない。地球年令、それを超えた宇宙年令の尺度で生きているのだ。

「宇宙で最も明るい天体は太陽から54億光年離れたクェーサー3C345です。真ん中に揺らいでいるのが巨大なブラックホールの入り口で,、そこから高速のジェットが噴出しています。クェーサーは宇宙最大のエネルギーを放っている天体で、毎年太陽を1個ずつ食べることで莫大なエネルギーを放出し続けています。クェーサーのエネルギー源は、ブラックホールに吸いこまれた物質の重力エネルギーが変換し、解放されたものです」「私たち自身を含めて地球上で目にする物質はすべて、元をたどれば宇宙のどこかで、、星が生まれて死ぬ過程でつくられた星くずのかけらでできているのです」(Newton、ムックより)

 そのブラックホールの入口の幅だけで、新幹線に乗って100年ほどの距離だという。クウェサー3C345、恐るべし。何しろ毎年太陽を喰らってしまうエネルギーなんだから。天体の中心を貫くジェット気流の巨大噴出力が、背骨にぞくぞく伝わってきてしまい、ウコン茶割りを5杯も飲んでしまった。
 30キロ近く歩いて、最後は星屑となるばかりか・・・
 店を出て、さてこれからどうしよう。

  打ちっ放しのコンクリートの灰褐色の壁面が四肢を取り囲み、それは次第に広がって空間を作り出していた。低い音程のジャズが、静かに流れている。
 ジャズは嫌いではない。時に身体の奥まで馴染み、恍惚に浸ることもある。今流れているのは、コルトレーンの「佳き日があれば」か。ピアノがまだ見ぬ星座を呼び出し、ベースがそれに呼応して胸の旋律を目覚めさせる。それを混交させるコルトレーンのサックスの離れ技!しかも押し付けがましさは微塵もなく、調和のヨロコビを伝える諧調、音の飛沫を浴びればいいだけ、それがライフだ、という感覚。

 カンパリソーダのお代わりは?
 つま先だって妙に顔のひょろ長いウェイターが、腰をひょろょろ動かして近付いてくる。
 お代わり?カンパリ?
 目の前の、やはり打ちっ放しのコンクリートのカウンターテーブルに、赤褐色の液体が3センチほど残って、気泡が光っている。
そうか、記憶をなくすほど泥酔して、「バルカン城」とかいう、いかめしいて店名に惹かれて、傾れこんだのだっけ。地下に通ずる曲線の階段を、ひたすら下り降りた気がしたが、そうでなかっかもしれない。
 3センチの赤い液体を0にして、もう一杯、という代わりに右手の人差し指をたてた。

 カンパリ・ワン!

 ひょろ長は蒙古犬の遠吠えのような声をひびかせて、またくにゃくにゃと去っていった。全身がムンクの叫び声のような奴だ。そういえばこの世の気配全体が奇妙に揺らぎ続けていて、身の置きどころがない。私は泥酔してこの店に入ったことまでは覚えているが、それ以前の自分がなにものであったのか、ということが、なにも浮かばないのに愕然とした。たすき掛けにしていた黒いカバンを開くと「宇宙の絶景」という本が出てきて、武蔵野台地をひたすら歩き続けてきた宇宙人じみた男の背中が浮かんだ。それは誰だったか・・・

アタリィ、アタリィ、ドンペのシャンパン奢りだかんね・・・

はしゃいだ声が間近でひびく。すぐそばで、女性が、まわりにホストを従えてダーツをしているのだ。耳元でしゅるしゅるしゅるしゅる風がひびいて矢が奔りつづけている。
 私はダーツゲームのルールを知らないし知ろうとするつもりもないが、すぐそばで矢が飛び交っているのを見ると、標的を捜すしかない。標的のど真ん中に的中させたロングヘアーの女性が、両腕を捻ってよろこんでいる。馬の尻毛のような前髪が額に降りかかるのを何度も何度もかきわけて、もう若くもないロングヘアーの女が、もう若くもない標的に向けて、矢を放とうとしている、何度でも何度でも。
 野放図に明るい女性が昔から苦手で、今、目の前で無神経にダーツに夢中になって矢を放っている女も嫌い、大嫌いだ。けれどどこかなつかしい気もする。
 二度と近付くな、けれど二度と遠ざかるな・・・みたいな気分を共有しているん、じゃ、ないか、か、か、か、、、。
 句読点が少し余分な人生だったのだろうか。ダーツの羽が的にたどりつくまでには、たくさんの句読点が在り、そして的を外してしまうのは言うまでもない。目の前に、句読点からはみ出した血沫を散らして、カンパリソーダが運ばれた。ダーツの標的は俺だったのか・・・・・。
野放図に明るい女性の手から放たれた矢によって、心臓を貫かれたら、それはそれで本望の生き方ではなかったか?

 ビルとビルの隙間から、細い夜明けの空が覗いて、雫が途方もない宙空の奥から零れてくる。太陽系唯一の都市を有する天体、そのめざめに向き合っているのはわかったが、身体のふしぶしが痛い。ここは新宿3丁目・・・あたりらしい。というのは「しんじゅく3丁目プリティ」のブリキのプレートが、ぐにゃぐにゃに折れ曲がって隣に横たわっていたからだ。酔いつぶれて、ここを塒としたらしいが、池袋の「一軒目酒場」以降の記憶が曖昧だ。
「バルカン城」という店に入ったのか、夢だったのか、もう定かではない。
 ダーツの標的にされたか、されなかったのか・・とにかく生きていておめでとう、自分に告げて起き上がる。
 新宿で酔いつぶれて、ビルの隙間で一晩明かす・・・30代以降、なんどもやってきたことだ。けれど私はバーチャルではなくそのまま死体となってもおかしくない世代となっている。死体と自分の区別が、そろそろわからなくなっているのだ。
 「バルカン城」で、ダーツの標的にされたかどうかなんて、もう、どうでもいい、ダーツの矢を、宇宙最大の天体、クゥエーサー3C3456の導くジェット気流に乗せて、放てばいいんだ。

(続)窓を求めて夜空をさまよう、難破船のように

知らぬ間に後楽園駅まで来てしまい、方位がわからなくなって歩道橋を上ると、そこから先はまた、異質な都市の気配が漂いはじめる。
 後楽園駅前の歩道橋を、うっかりのぼってしまうと、夕闇と銀河のただなかに属する領域にまぎれてしまう。
 取り囲む高層ビルの窓を見回すと、とりわけ薄い窓のいくひらが薄紫に発光して、そこから、ぼんやり浮かぶ少年少女の翳がある・・・。ああ、これは「窓、その他」の懇親会に行きそびれて迷ってしまった「その他」の魂だとわかった。大人たちの感性からはぐれてしまった少年少女たちだ。銀河強制収容所に送られるまでの猶予期間を、やわらかくやさしく過ごしていますというように。その薄紫の窓は、あてどなく流れ寄ろうとしている難破船の気配を呼吸しているようだった。輪郭すら危うい少年少女たちはこれから漂着する難破船に乗って、銀河の果てまで、その魂を流されにゆくのだ。

 気づかざりし眼下は線路おびただしき薄緑色の窓ながれおり  晶太

 地中に埋もれた地下鉄線の線路には「地下鉄船」が難破船のように揺らめいている。・・・さっきまで乗っていた都営大江戸線は、江戸の地中深くを走り続け、孤島のような地下駅と地下駅を繋いでいた。その地中で薄緑の車窓は発光し続けていた。そして私は地下鉄船に乗って「春日」駅に漂着し、その薄緑を身に纏いつつ「近くの会場」を捜し求めているのだった。やがて地下鉄船は浮上するはずだ。少年少女を彼方へと運ぶために、風説のように出発するはずだ。

紫の葡萄を運ぶ船にして夜を風説のごとく発ちゆく  安永蕗子 

 難破船に積み重なって運ばれる少年少女たちは、次第に薄紫となって溶け合い、発酵してゆくだろう、そして数億光年後の宇宙の彼方では、琥珀色の美酒となって溶け合っているに違いない。

 そして窓を、未完の窓を、その彼方にあって、どこにもない「近くの会場」を捜し続ける私も、次第にこの世からはみだしつつある存在になっていった。

窓を求めて、夜空をさまよう

 

 昨晩、内山晶太歌集「窓、その他」の批評会・懇親会があって、私は案内状にあった懇親会に丸をつけたので、文京区春日にある会場の区民センターに出かけた。案内状では「午後4時半批評会終了の後、5時半より近くの会場にて懇親会」とあったので、ともかく表記されていた都営線「春日駅」A2番口をめざした。
 しかし「近くの会場」とは曲者だった。5時半ころ区民センターについたが、会場となっていた3階の会議室は真闇、職員に聞いても懇親会の場所は知らないとのことだった。仕方なく区民センターの一階に戻ると、数名の警官が待機、マスコミ関係者らしき人々が十数人並んでいる。「区民センター」自体が、とてつもない事態にまきこまれているらしいが、内山晶太歌集とどう関わるのかは、判断できない。
「窓、その他」はテロル?
 この偶然はなにかの暗号かも知れないが、内山氏が行方不明になった気配もない。多分、歌人たちは穏やかに区民センターを後にしたことだろう。
 東京のチベットと誤解されている小平市から、都心の文京区まで多額の旅行費をかけて来ているので、このまま帰るわけにもいかない。「近くの会場」を求めて、酒場らしき店を覗きこみつつ歩く。大通りが縦横に伸びる殺風景な一帯で、庄屋、韓国焼肉店、和食屋等、大ぶりな店は少ないので、すぐにヒットするかと思ったのに、どこもがらんとしていた。
 「近くの会場」は、近場を捜せば捜すほど遠くなってしまう。
「近く」とは何なのか、空なのか地下なのか、すぐそばなのか・・・。
 地下広場にテントを張って、秘密のパーティを始める歌人群落、そこには窓がないのか・・

夜はビルの丁寧なひかり尋ねれば窓になりたい窓もあるべし  
手をつなぎたくなる夜の風よるの風上にくらやみは帆を張る 「窓、その他」より

 「近くの会場」はついに見つからず、「春日」から「後楽園」へと続く空中廻廊のような遊歩道を彷徨い続けていると、無数の「窓になりたい窓」の気配が、伝わってきた。「くらやみの帆」も張りつめてくる。
胸に張りつめたくらやみの帆を、彼方の窓に解き放てば、「近くの会場」に辿りつけるかも知れないと思って、さらに歩き続ける。

 教えてください、誰か。「窓、その他」の懇親会が、ある場所を。
夜の風と風が、手をつなぎあっているところまで