2011年8月のアーカイブ

炎暑の頃

 今年三回目の猛暑日、昼前の小金井公園に行っても、暑さのためか人影は少ない。烏ばかりが嘴を開けたまま炎熱を吐き出している。烏の嘴の奥は真紅で、確かに炎を呑みこみ続けているのだろう。

一羽づつ炎暑を呑みて吐き出せる烏紅蓮の魂となりつつ

小金井公園は木蔭の宝庫で、盛夏こそ生者も死者も、どっと繰り出すべきなのに、どっちつかずの自分だけが、木洩れ日を踏みしめている。
 木洩れ日は宇宙の水面だ。薄く透明にきらめくものたちだけが、そこを浮遊することが赦される。木洩れ日は、さあっさあっと、ここに生きているすべての色彩を溶かすのだ。シベリウスのヴァイオリ・ンコンチェルトのように。
木洩れ日に浮かぶ薄き殻、薄羽、葉脈、みんな漣のいろ

 烏翅と蝉翅と蝸牛の貝殻と空蝉と夏落葉を拾った。どれも不可思議な虹色を帯びて、風と光りの気配を綯い交ぜにしていた。そのすべてに夏盛光の痕跡がある。身体の根っこからプラズマのように沸き起こる真新しい炎暑の気配を、どう扱えばいいのだろう。
木蔭の下には限りなく楽しい気配が満ちているので、そのプラズマを身体に呼び覚ますべく、踊り始める。自分が踊るのではなく、自然に周囲の空気の気配に呼応して、身体の動くにまかせるのだ。
 昨日、上野の古代ギリシャ展で観た、前2世紀の「踊る少女」の塑像が蘇る。
いづれおっさんになる(若者)の円盤投げも、宇宙に迸る肉体性の謳歌ということで、足指の屈折に瞠目した。踏みしめる親指、それを支える四本の足指。
 円盤をこの世界の果てまで、投げ上げようとする青年に比して、「踊る少女」の塑像は、身体を隠すために纏わりついた縞模様を、ぐるぐる回転させているだけのようだ。しかしそこには、見えない音楽、リズムがある。不思議なことに、円盤まわそうとしている兄ちゃんには、その音楽が聴こえない。
もちろん英雄たる円盤兄ちゃんには、周囲から賞賛のリズムが鳴り響いていたはずだが、その場限りの響きに過ぎなかったと思う。
 前2世紀、ギリシャの小都市で、幾重にも様々な色彩で織りなされた装束を纏って、小さな広場で、ゆらゆらと巡りながら踊っていた少女を憧れやまない。
どんな音楽で、どのように踊っていたのか・・・。陽盛りのなかを浮き沈みする、帆船のような日傘を、ふと思い出す。あなたは音楽だったのだ。
 

陽盛りに日傘の影を運びゆくあなたと呼べる帆船ひとつ
溺れゆく鳩をひととき掬いたる日傘思えば日傘は帆柱
逃げ場なき生き物たちよばさばさと日傘のなかに集まれ集まれ

 木洩れ日はあったのだろうか?