2011年6月のアーカイブ

猿橋まで

 死せよ、そして成れ
 このことを体得しないあいだは
 君はただ暗い地上の陰気な旅人に過ぎないのだ
                      ゲーテ「西東詩集」より

最近は心身の空洞化が著しく進行してしまい、雑踏とか車中のなかに混じると、周囲のざわめきが、幾重もの透明な波紋になって反響する。どんなさざめきも水のせせらぎのような束になって魂の空洞に木霊するかのようだ。断崖にさざめく水の気配、そこに溶け込む死の気配だ。水、断崖、タナトスへの衝動・・・は久しく私に纏わりついている情動なのだが、普段は意識の表面に出てこない。しかしこの世と自分の繋ぎ目となっていた艫綱のようなものが、ぶつりと途切れてしまい、方位をなくした漂流物として遣る瀬無く日々を過ごしていると、身の置き所なきまま虚空にジャンプする兆しを待ち焦がれることになる。わが現生のテーマは「愛と孤独と死」に尽きてしまうが、そのどれもが正体不明のまま、ただ水流のさざめきが募るばかりだ。時に胸奥で閃光する翡翠色のときめきに慄きながら。なにかが剥き出しとなり、それを水流に晒してみたいという衝動がやまない。

 その「兆し」は、いつも利用している中央線快速電車に坐っている時やって来た。電車は水平に走っているのに、眼を閉じて車輌の響きに四肢を沿わせていると、垂直に昇りつめてゆく気配が、背筋を這いのぼってくるのだ。以前みた、建築途上の東京スカイツリーの中心を上下していた昇降機に乗っている気分だ。あの時昇降機は未完の塔をさらに突き抜けて虚空に消えていった。昇降機に乗って虚空へと脱出したい、とその時強く願ったことを思い出した。垂直志向だ。虚空に消えても落下しても所詮同じことだ。
 中央線快速電車の座席ごと虚空に吊り上げられてゆく、このまま現世から離脱できたら本望だ、その後失墜するとしても・・・。だが眼を開けると正面の座席に、両又を大きく広げて口を半開きにして寝入っている若いサラリーマンが眼に入る。最近の流行なのか、平べったく尖ったカモノハシの嘴のような革靴を履いている。こんな奴とともに虚空に消えたくはない。蹴飛ばしてやりたくなるのを我慢して再び眼を閉ざす。兆し、虚空に脱出する兆しに意識を研ぎ澄ませて。

猿橋だ、猿橋に行こう、猿橋しかないね、世界中にたったひとつしかない猿橋に---背骨をサタンめいたしゃがれ声が這いのぼる。
 猿橋が無限に遠く夢幻に淡い、虚空に架かる橋として、こころに揺らいでやまない。この世を脱した真空地帯に揺らいでいる木橋。
猿橋というのは山梨県の中央本線途上にある小駅。日本三大奇橋に指定されている「猿橋」がある。甲府市が故郷なので、甲州街道沿いにあるこの宿場街には馴染みがあり、少年時代は中央本線に乗ると間近で猿橋が眺められたものだ。(今はルート変更されている)
 何年か前、猿橋駅近くの橋から投身者が跡を絶たず、自殺名所となっていると報道されていた事も思い出した。水と断崖と死を統べる橋・・・そうだ猿橋に行こう。事務所に向かうはずの中央線快速電車の上りを中野駅で降りて、下りに乗り換えた。カモノハシのサラリーマンは、いつのまにか消えていた。

 高尾駅から甲府行きの普通車に乗り換える。少年時代は「鈍行」と呼ばれていた筈なのに、いつから「普通」になってしまったのか。到底フツーではあり得ない私は「鈍行男」であり、鈍行に乗るしかないのだ。そこから幾つものトンネルをくぐり抜け、30分ほどで猿橋駅に着いた。小さな駅前広場には黒塗りのタクシーが一台、千年後に来そうな客を待っている。看板のない商店が一軒あって、菓子パンとかポテトチップが置かれている台がサッシの窓越しに仄かにみえて、ウラサビ感(裏寂れた感覚)の漂う駅だ。すぐに甲州街道に出る。旧街道はどれもそうだが、道幅が狭いのに車の往来が激しい。アメリカンドッグやピザ、たこ焼きを売る屋台風の店舗が、値段の札を貼り付けたまま街道沿いに放置されている。赤っぽい屋根はぼろぼろ、おそらく10年以上そのままなのだろう。街道沿いに十数分歩くと猿橋に着く。谷あいの難所に、一本の釘も使わず橋を架けるという、奇跡の技術が生かされた橋なのだ。猿が手と手を繋ぎあって谷渡りをした、あるいは藤蔓を命綱として谷を越えた姿をみて考案されたといわれ、最初の橋は1200年前頃に架けられたという。通常の橋のように橋脚を用いず,両岸からせり出したはね木を支点とする特種な工法が伝承され、何度も架け変えられて現在に至っている。猿橋自体は長さ数十メートル、幅二メートルほどの木橋で、崖と崖を繋ぐ天空の廻廊といった佇まいだ。橋をささえる木組みが鍵盤のような形に整えられて美しい。断崖は垂直に切り立ち、眼下の桂川の水流も速いので、往時の旅人には難所だっただろう。橋は命を繋ぐ場所として必要だったのだ。見下ろすと崖は川面の水明かりを反映して薄緑に揺らいでいる。水と光りのさざめく橋であり、ここから飛び込みたいと思う人は滅多にいないだろう。猿橋を渡って少し街道をのぼったところにコンクリートで築かれた「新猿橋」がある。ここは眼下20メートル位、河床に沿って視界が広がり、釣り人がちらほらみえる。
「虚空に脱出する兆し」に導かれてここまで来たが、ジャンプするつもりは、まだない。冥府には落ちてみたいが、その後何処へいけばいいのだろう。河床に叩きつけられて絶命するまでの数秒、それまでの人生のすべてが凝縮されて眺められる「パノラマ視現象」が現われるといわれる。それを無性に体験したいのだが、死骸となった瞬間から、その圧縮された記憶のすべては失われてしまう。死とは単純に死骸となることでしかなく、実際の死は体験できない。眼下20メートルの距離には<死>という実在が隠されているが、それは無限に近く無限に遠いのだ。

 黒いスコッチテリアを連れた男が、河床を眺め続けている私を最前からそれとなく観察している。大丈夫、こんなところで飛び降りたりはしません、。私は自殺志願者ではない。心身の空洞を持て余して、虚空に向かって自分は何者なのか、あるいは何者ではないのかを問いかけにきただけだ。プライベートな理由で死を選ぶほど愚かではない。
 欄干から離れて猿橋駅へと戻りはじめた。甲州街道沿いを歩いていると地に足がつかないというか、身体がふわふわした感じになっている。虚空を眺め続けたせいなのか、微妙に現実感が薄れている。
 駅近くの街道沿いに、猿橋でただ一軒のコンビニ店があり、その傍らを県道が通っている。すぐに桂川に架かる橋があって、赤く塗られた橋桁がなんとなく不吉めいていて、最初に通った時にも気になっていたので、吸い寄せられてしまった。橋名は特にないらしく「桂川」という看板だけが掲げられている。新猿橋と変わらない高さと橋幅だが、渡りはじめると何ともいえない不安なさざめきが心身の空洞に響いてきた。無意識のうちに呼ばれていたのは、この橋だったのかも知れない。<私>とは壊れやすい未完の塔であり、様々な夢を危うく積み上げてきただけだったという思いが、不意にこみあげてくる。崩落の予兆のように。心身に積み上げられた夢の塊が、歪みはじめ軋りはじめていていた。なんだか真っ直ぐ歩けない。

 橋の半ばまで来ると薄紙に包まれた花束が二つ、道路上に置かれていた。まだ花々は呼吸づいているようなので、この場所で身投げした者のために最近手向けられたものだろう。青い花房が覗く、矢車草だ。自殺の名所、というのは明らかにこの橋のことだとわかった。思わず両手を組み合わせた。
 欄干は腰のあたりの高さのため、少し身を傾けるだけで落下しそうだ。うっかり眼下を眺めてしまうと、薄鼠色の水流が渦をまき、引き摺りこもうとする強烈なエネルギーが発せられている。方向が逆向きになってしまったのだ。上から下へ、ではない。下から上へと、水流が私を飛び込ませようとしている。欄干を越えて、否応なく死が現実を鷲摑みにしてきたのだ。<私>の意思ではなく、この橋の<場>の力が、そうさせようとしている。ここで命を落とした人々の集合的無意識が螺旋状のエネルギーとなって圧倒的に押し寄せた。夢の塊が、まずがらがらがら崩落してとどめようがない。
 身動きが出来ない。飛び込むことも地上にとどまることも出来ない心身亀裂状態に陥りつつ、ふわんふわんふわんと身体が吊り上げられた。<私>から私がはぐれて<>の断片が、虚空に向かって飛び散ろうとしている。

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 頭部が砕け、眼球が跳ね跳び、五臓六腑はぐしゃぐしゃに潰れ、外形も留めぬまま崩れた物体と化した自分の死骸を、一瞬垣間見た。その時、水流に翡翠色の閃光が奔り抜けて、欄干から身を乗り出そうとする自分を押し止めた。なにかに縋らなければ落ちてしまう、と咄嗟に思い、手元の花束を閃光に向けて投げつけた。自分の身代わりとするかのように。

 青い矢車草の花束が、ぱらぱらと一本づつ離れて、めくるめくように宙空に渦巻き、水面にとどく前に、ふっと、それぞれ虚空に消えた。

                             (未完)

じゃあ、また

 時々、胸の奥で翡翠色の閃光のようなものが奔り抜ける。胸処をつらぬく痛いときめき。

 絲とんぼわが骨くぐりひとときのいのちかげりぬ夏の心に
 心の全きことねがはむに夏深む樹間縫ふ青揚羽     山中智恵子『紡錘』

 ときめきと死の予兆とが、分かち難くひとつのものであることを、最近ますます強く感じるようになった。
 この世の身丈に自分の身丈を合わせるのが、煩わしくなってから久しいが、それでもなんとか体面を取り繕って生きてきた。しかしどこにいてもなにをしていても「この世からはみ出している」という感覚に包まれてしまう。この世への絶望感とか疎外感ではない、なにか別の尺度で宇宙の時空に自分が繋がっている、という意識が閃くのだ。

    ※

 稀に、ときめきだけが、フラッシュバックする。
視界の果てに、ぶらんこの立ち漕ぎをしている両脚の弾みがみえる。

    ※

 女の子は両頬をいっしんにふくらませて、たくさんのしゃぼん玉を吐き出していた。しゃぼん玉はひとつひとつ色や大きさが異なる。それだけではなく、それぞれ消え方が違う。それに気付いた時、女の子の瞳からおおつぶの涙が溢れた。その涙はこの世にまぎれないしゃぼん玉となって、青空に吸い込まれていった。

 じゃあ、またね、このあたりで終わります

宙飛ぶ海蛇

 屋根付き商店街、つまりアーケードは、それが全国に現われた昭和30,40年代はとてもモダンだったのだが、いまや一部の街を除いて、うら寂れた街区を象徴する存在と化しつつある。特に屋根が錆びついたままになっているようなアーケード街は、それに呼応して開店休業中の商店が並ぶことになる。

 こころが古いアーケード化しつつあると魔物が棲みやすくなるのか。

 錆びついた屋根の架かる地方都市のアーケード街を、海蛇が飛びまわる夢をみてしまった。最初は青いビー玉だったのに、そのひび割れから玉虫色の蛇の幼虫が生まれて、転がるたびに青光りする鱗をもつ蛇へと変身していったのだ。海蛇なので、地上の空間を海として、くねくね身を躍らせて、地上を這ったかと思うと一気に浮遊するのだ。全身からぬめぬめと毒液のようなものを滴らせて。どこにどうへばりつくのかわからないところが恐ろしい。海蛇が舞い上がるたびに、うぁぁぁぁぁぁ、というどよめきが商店街にひびき渡り、いつもは人気が少ないのに、どこから湧いてきたのか、たくさんの買い物客が、パニックになり走り回っている。体長は1メートルほどだが、飛ぶと倍になり、べたべたと皮膚に絡みついて奔ってゆくので、ばたばたと人々が倒れてゆく。

「あんたは専門家なんだからなんとかしてくれ」

と、防災頭巾を被った老人から、断ち切り鋏のようなものを、いきなり手渡される。こんなもんで蛇が斬れるのか?おまけに蛇伐りの専門家だったことはない。
 しかしともかくも正義感、タダシキココロ、が試されたのだ。小さな親切運動で、お婆さんの手をとって横断歩道を渡ったということで、朝礼で名前が読み上げられた小学5年生の時以来の光栄だ。

 鋏を頭上でかざしてチョキチョキチョキと開閉すると、海蛇は姿勢を変えて戦闘態勢をとっている。蛇は閃光のようにまっしぐらな姿勢をとったときがもっとも美しい。深海の裏側の青が一瞬発光する。その胴体の真ん中を断たんと鋏に力をこめる。夥しいエメラルドグリーンの血、あるいは毒液を浴びてしまった、浴びてしまった、浴びてしまった・・・。
 目覚めると、生身の自分がのたうちまわっている。

 海蛇を夢のなかで、きちんと断つことが出来たんだろうか。
 断てなかったら、形を変えて、きっと、この世に戻ってくるんだろうね。