2011年1月のアーカイブ

この世にまだ滲み出ない色彩

 同じ風景眺めつつ、意識下の風景との柔らかな遭遇を、日々、なんとなく求めている。毎日、いわゆるウォーキングを1時間以上しているが、それは健康のためというより意識と無意識の渦巻く感覚に呑み込まれたいためだ。
空気が恍惚としている、という感覚にまぶされて歩み、宙飛ぶ蛇の輝く皮膚を雲ひとつない冬空に描いてみるとかしているうちに、地球の大地というのは固体化されたものではなく流動的で、太陽光も分光化されたプリズムとして虹のように身体に絡みつく光の帯として感じられてくる。その大地と光と空気の網の目に、もしかしたら、未生のときめきが色彩として発光し、激しくせせらいではいないだろうか?

「われわれ人間にとって自然は表層にあるよりも奥行きにある。したがって、赤と黄で描かれる光の振動の中に、たっぷりと青を置いて、空気の感じを出す必要がある」
                                   セザンヌ

 風景をどんなに正確にありのまま描いても、芸術にはならない。色彩の震えと、その凝縮の、魂の軌跡を描かなければ作品にはならない。セザンヌはなぜあのように狂熱的にサント・ヴィクトワール山を繰り返し描いたのか–。
それは芸術家としての本能である。メチエのなかにしか本質は存在しない。それは流動的でありながら、奥行きとして、この世に確と存在しているものだ、ということだ。芭蕉の「松のことは松に習え」と、同根の芸術信条であることを、確か玉城徹も指摘していた。
 しかし芭蕉は一元化された境地、すなわちモノクロの風景を求めているのに比べて、セザンヌは、多層的な色彩の響きあいこそが、ライフ感覚であり芸術家としての目的であった。赤、黄、青・・・色彩はそれぞれ振動を持っていて、それが命の階層を為して現実の形象となるものであることを明察した。(セザンヌの描いた林檎は、この世のどんな林檎よりも現実的だ!)
 
 空気の振動が、色彩として、夢の形として、現実化してくるということーー。

「人間にとって自然は表層にあるよりも奥行きにある。したがって、赤と黄で描かれる光の振動の中に、たっぷりの青を置いて、空気の感じを出す」        セザンヌ

 ウォーキングをしながら、この空気の感触をひたすら吸いこむ。

 生きる(死んでない)というのは、その色彩の振動を丸ごと摑みだしたいだけ。もしかしたら、まだこの世に滲み出てはいない色彩を、身体から搾り出してみたいだけさ。

旋律と戦慄

 旋律は戦慄ですか  

 現実には見えない世界の、予感と予感を繋ぐ慄きのなかにしか、この世に自分を留めておく理由がない。それは直感と直感が響きあって、未知の領域を生成する気配に導かれるということだ。150億年前、無から未知のエネルギーが急激に膨張して宇宙を誕生させたように。あるいはモーツァルトの至福と悲愁を同時に孕んだ旋律のように。

 しばらく留守にしていた麦藁帽子の絵が、自室に戻ってきた。緑の額に縁どられながら。この絵を受け取った日の、風のさざめきや光の明滅が蘇る。木立の奥の木のテーブルのうえで、絵描きさんから直接、草原にさざめく麦藁帽子の絵が渡され、それはこの世でもあの世でもない風を呼び集めていた。絵のなかで麦藁帽子のリボンが、どこに翔び立ってもいいよ、というように靡いていた。麦藁帽子は玉虫色にひかる蜥蜴を匿い、紋黄蝶が食べられるのを黙認していた。麦藁帽子からはみ出した蜥蜴の玉虫色の尻尾と後ろ足、そして少しのぞく黄色い翅。戦慄は麦藁帽子の内側で、静かに育まれていたのだが、自然の摂理とはそういうものだ。その時、絵の内側だけでなく、外側にも風が吹いていた。未知の領域に広がる風が。透き徹ったエメラルドグリーンの風が、吹き抜けていった。風の色が確かに見えたのだ。
 眼に見えない風の慄きが、この世もあの世も突き抜けて、ただただひたすらさまよいつづけていた。旋律のように戦慄のように、溶け合っているものの気配があった。

  旋律は戦慄ですか ひらひらと麦藁帽のリボンが靡く   雅人

 それから麦藁帽子の絵を自室に掲げていたのだが、絵描きさんが展示に使いたいというので、しばらく留守になっていたのだ。からっっぽの真っ白な額縁に何日も向きあい続けているうちに、麦藁帽子は果てしない宇宙空間を彷徨っているのだ、という気持ちになってきた。不在というのは喪失ではない。眼に見えない強烈なエネルギーの磁場を生じさせるフィールドだったのである。

 絵描きさんは緑の額縁に入れて、その絵を戻してくれた。エメラルドグリーンの風を、そっくりそのまま返してくれた。

眼に見えない世界の予感と予感を繋ぐ風の慄き___。

 今日、26歳で夭折した笹井宏之の二冊の歌集が届いた。

風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける
戦争がやさしい雨に変わったらあなたのそばで爪を切りたい
空き瓶をあらう あなたへ流れ着くための儀式としてすみやかに
                
                  笹井宏之『てんとろり』

あなた、とはなんだったのだろう、いや、なんでありつづけるのだろう。
逆説めくが、それはいかなる実体でもない。それは旋律として戦慄として
、ただただ吹き抜けてゆくだけである。

眼裏の薔薇

眼に見える世界の現実だけで一喜一憂する価値観には馴染まない。

「眼を閉じると、私の脳裏に咲きやめぬ薔薇の花のようなものが見える。それはひとつの中心を持っていて、そこから絶えず四方へ花の咲く動きがなされる」

ゲーテ

眼前の薔薇は枯れている。しかし眼裏の薔薇は 追想と予感を孕んで慄えている、少し血を流して。眼に見えない世界のなかで予感のように花開こうとするものの慄きは、どこからやって来るのか。

透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ

鉄棒に少女一匹ひとしきりむらさきいろの痣を咲かせて

ヒロインの悲鳴は長い 流氷はぼくが死んでも氷だろうか

きたれ、きみ、むすうの薔薇がむこうからみつめる夜を掻き分けながら

翅乾きゆくをとどめ得ず少年は少年を脱ぐ夏の夜明けに

佐藤弓生『薄い街』

眼に見えない世界の、予感と予感を繋ぐものの気配が『薄い街』に立ちこめている。現世離脱、この世から脱皮したいと願う少年少女たちの魂が、「薄い街」の気圏でほのかに交じり合う。そのような街で、私も確かに生きている(あるいは生かされている。浮遊しながら)と感じる日々だ。

月光の皮膜を纏う少女達ひとりひとりが飛び降りゆけり  雅人

切り株のひかり

新年に特別の感慨はないが、正月三日、疎林をあてもなく歩いていると、さすがに改まった陽射しの豊かさを感じる。朝の林の気配を「ひかりに満ちた神聖な午前」と表現したのは立原道造だったか。

冬木立の奥に光源の気配を感じて近付くと、それは切り株だった。切り株が真新しい光を思いっきり吸い込み、吐き出していた。そこから命の初源に繋がる光が溢れてやまない。何かがそこに降臨したかのような神話的気配すら感じる。神話とは何かを強烈に夢見る力が、現実化したものだ。  (時空を超えてあなたはそこに坐っていたことがある)

切り株から目に見えない波動が放射され、渇いた地表に光波となって拡がり、私の足下を埋めつくして這いあがろうとする。一本の樹木へと変身させるように。

しかし切り株はもとの樹に戻ることは出来ない。すなわちそれは「不在の夢」だ。切り株に腰掛けると、その不在の夢と自分の身体が、ありありと繋がっていることが感じられる。その時私は「眼にみえない樹木」の一部分であり、ひとつぶの木の実が芽を出し、枝を伸ばし、やがて木洩日をつくるまでの一部始終を束の間、共有する。切り株の中心から背骨をめがけて悲しみとも至福とも見極めがたい薄刃のような光が立ち騰ろうとしている。

–不滅の樹木をこころに持てば– 宣託のよう言葉が閃く。

心身に不滅の樹木が半透明にさざめきはじめる。この世以外の世界に羽ばたけよ、というように。