2010年12月のアーカイブ

夢の痕跡

黙っていても、あるいは黙っているからこそ響きあう世界に、眼を見開いたり、耳を澄ませたりしていると、それが少しづつ形になって、水溜りになったり、蝉殻になったり、切株になったり、夕雲になったり、石ころになったり、貝殻になったりして胸のなかを流離い続ける。少年時代、薄暮の深まる森の中で、「蝉殻をいっぱい探してください」という少女のためにランプを灯して彷徨ったのは夢のなかの出来事だったのかもしれない。夜になるまで拾いあつめた蝉殻には、微かな夕光の痕跡があり、それはこの世のものではなかったので手放すしかなかった。てのひらに溢れるほどに集めた蝉殻を宙空に放り投げると、蛍のように明滅しながら、森の彼方の真闇へと飛翔していった。

時々、からっぽっだったはずの蝉殻を、自分自身に呼び戻したくなる。蝉殻からもとの蝉に戻るように、背中からむずむずと羽が生えて蝉の生身となり、胸の奥から鳴きたくなるのだ。じーっじーっーじーーっと。あるいはびりり、びりりりり、びりりりりと命終の声を放電したくなる。蝉のように潔く現世から離脱してみたい、とひそかに願い続けている。死ぬのではなく転生するのだ。特定の何かになるのではなく、誰かの夢みた形そのものとなって変幻自在に宇宙に遊ぶのである。水滴になったり葉っぱになったり一角獣になったりミトコンドリアになったり木の実になったり水牛になったり卵になったりロマンスカーになったり洞窟になったりするのだ。私に画才があれば、そのモチーフを追い続けたかも知れない。パウル・クレーは万物の奥に未知なるものが存在すると言い、その予感を線で描き続けた、未知なる夢に形を与えるために。

「人間は半ばは翼のある存在で、半ばは囚われの身の上である」(クレーの日記より) クレーはしばしば画面に矢印を描いた。見えない次元に矢を放つように。

子供の頃から今生きているのは架空の世界で、いつか本物の世界に目覚めるのだと思っていた。それ以来架空の夢をつなぎあわせて、やっと生きている時間の埋め合わせをしてきた。夢の破片ばかりが身体にびっしり詰め込まれ、羽ばたく瞬間を待ち続けている。目に見えるこの世の現実ではなく、彼方へと結ばれている別の廻廊があって、ひたひたひたひたそこをひたすら走り続けてきた。夢と夢を結ぶ通路を見出すと、本物の世界に少しづつ近付ける気がして。「私」とは、その繋ぎ目からあらわれた現象であり、それ以外ではない。

そこだけがたしかにひぐれてゐる窓辺きみは林檎の光沢を剥く

狂はない時計を嵌めてゐる人と二度逢ひ三度逢ひ明日も逢ふ

在るときは校区外へと導いてきらめく姉の手旗信号

『鈴を産むひばり』光森裕樹より

今年刊行された歌集の中で、もっとも優れた一冊だと思うが、そんな相対評価はどうだっていい。「繋ぎ目」を捉える感性、夢の廻廊を走り続ける足音が確かに聴こえるのだ。あたり前の情景が、この世から少し零れて慄いている。その裂け目から夢と夢を繋ぐ実相、すなわち「物の見えたるひかり」が迸る。

現実と夢の裂け目のような場所に、郷愁のように佇み続けていると、いつしか自分も世界も跡形もなく消え失せてしまうだろう。

鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ

光森裕樹

夢の痕跡のような輪郭が、銀の響きとなって、いつまでも消えずに残っている。

俺様化

前回のブログで一人称を「ボク」としたのは、世間的な意味での成熟が上手く出来ないまま大人を演じ続けている自分のほろ苦さを暗示するためだった。これまで付き合ってきた数少ない女性たちに共通して言われ続けてきた事は「あなたは子供っぽい」というものだった。それはまぎれもない事実なので、無理やり大人っぽくしようとも思わなかった。しかしもう何年も前の話だが、ある女性とクリスマスイブの夜に会って、レストランの前で「なに食べる、ボクチャン?」と言われた時は、その場で気絶しそうになった。

その事をきっかけとして、一人称を変えるだけで表現者としての意識が変わることに気付いた。少しは男らしくなろうと。例えば「俺」としたら、自分の内なる雄的部分を否応なく、あぶり出せるのか。「ボクは疲れていたので、吉野家の牛丼の並盛を頼んだ」を、「俺は疲れていたが、松屋の牛丼の大盛を頼んだ」に変えると多少は男らしさが強調できる気がする。社会における、自我の縮小、拡大の認識は一人称の選択に深く関わっている。それならいっそのこと「俺様」を一人称にしたらどうだろう。NHKの幼児向け番組のキャラクターだった「じゃじゃ丸」は、確か「俺様」といっていたし、ひょっこりひょうたん島の海賊「黒ヒゲ」も俺様と名乗っていたと記憶する。要するに「俺様」とは、皆より偉いんだということを誇示する子供じみた一人称として流通してきた。しかし世間の多くの男たちは隠れた心の部分で「俺様化」しているのだ。もとより自分自身がそうなので、しばらく俺様化して生きてみることにする。なんらかの自己啓発につながるかも知れないし人格が変容して教祖になれるかも知れない。「ナニサマのつもりなのよ」となじられたら「俺様のつもりなのだ」と言い返して信者を増やすのだ。

ちなみにこれまで「俺様」を一人称にした短歌、俳句、小説等を読んだことはない。わが輩はあるけどね。けれど志賀直哉なんかの強烈な自我信仰は「俺様化」かも知れない。「小説の神様」ではなく「小説の俺様」なのだ。志賀直哉の小説の一人称を「俺様」に置き換えて読むと、その事がよくわかる筈である。以下、ボクの文章も、一人称を「俺様化」してみることにする。

天鼓林から都会に何となく戻ってきたが、「空洞化」の感覚が進行してやまない。漠然と身体に残っている感じは、この世は未完のときめきに充ちている、ということだ。俺様とは未完の夢の集合体なのであって年月を経るに従ってそれらは無闇に増殖して収拾がつかなくなるのだ。

小雨の日が続き、落葉がべっとり舗装された遊歩道に貼りついている。なにか体中に落葉がべとべとと貼りついてくるようで、俺様を腐葉土と化すようなエネルギーに取り囲まれてしまうようだ。落葉はもっと軽やか、というか、とてつもなく果てしない空間から落ちてくるものではなかったか。勝手に濡れるな、俺様を滑らすな。

未練がましく執着してくる雨に濡れた落ち葉のごとき思いを払拭したくて、銭湯に出かけた。十年前までは俺様の居城(木造平屋建ての貸家)から半径十キロメートル以内に五軒の銭湯があったのに、今は一軒しか残っていない。しかも煙突に描かれた文字は「○○湯」として消えかかり、松だか梅だか、判明しない。しょっ中臨時休業するので、煙突から煙が出ているかどうかで、開店を察知するしかない。消えてなくなることを前提として営業しているのは俺様同様なので、文句をいうつもりはないが。

誰にも気付かれない速度で、すべては進行する。銭湯の崩壊も癌細胞も死や愛への希求も。それらすべての芽を俺様は体内に飼っている。俺様はいつも束の間の幻影を追いかけている。

ああ誰か俺様をこころゆくまでくすぐってはくれないだろうか、その架空の思いを満たすために、朽ちかけた銭湯に出かけてみたくなる。幼少のみぎわ、俺様は母親と一緒に女風呂に入り、腋の下、首の下、足裏と全身隈なく泡だてて洗ってもらった。あの時、なんであんなに幸福だったんだろう。理由もなく泡だらけになってひたすらくすぐったくて、それだけのことが、なんでとてつもなくしあわせだったのか、思いっきり笑ったのだ。その空間を確かめたくなって銭湯に行くのだ。特に足の裏のくすぐったさの至福は、この世のものではなかった。

銭湯の湯は常に熱めだが、水で薄め過ぎないのが仁義である。銭湯に来るのは皆「俺様」

ばかりで、熱湯に生首ばかりが浮かぶのだ。しかし設置されている湯音計はすでに47度を越えていて石川五右衛門の拷問に近付きつつある。「俺様化」が試されているのだ。俺様は眼を閉じて唇に熱湯を触れさせて「まだまだ」とつぶやいてみせる。ぶくぶくぶくぶくぶくぶくと、まだ見たこともない粟立ちが、俺様の皮膚そのものから吐き出されようとしていた。