2010年11月のアーカイブ

空洞化

事物の奥行きまで、隈なく照らし出すかのような十一月の光を浴び続けていると、ますますボクが空洞化していく。ものの輪郭がはっきりすればするほど現実と夢、というか、この世とあの世の境界が曖昧となり、ボクがボクでなくなっていくようだ。ほら、ボク、尻尾から消えかかってますよ、尻尾ではなく影でしたか、どちらも同じようなものですけれどね。ボクは、ボクというという<無意味>を引き摺っているだけだから・・・。だが、ちょっと待て、生きるとは99,9%以上の<ボクという無意味さ>に耐える事ではなかったのか。

しなやかな鞭のように尻尾を振っている猟犬ポインターと、その飼い主を街角でみかけた。ポインターは体毛が少ないので、余計尻尾が際立ち、それがそのままヒトの尻にくっついていても違和感のない気がする。(ボクだって尻尾があれば振りたい気分の日はあるのに)  いつから人類の祖先は尻尾を無くしたのか、それで幸せになれたのか、飼い主は不機嫌そうで、ポインターは嬉しくてたまらないように舌を垂らす。それにしても犬の舌は、なんで口からはみ出るほど長いのか、涎を滴らすほどに。

ボクの舌は短く、いくら伸ばしても鼻の頭には届かない。これから、どのような訓練を積んでも届かないだろう、もう若くはないので。この世には不可能な事が多すぎる・・・でもボクは何年も前から、自分の年を数えるのをやめてしまったので、実際に自分が何歳なのかを正確に知ろうとは思わない。人に年を聞かれたら30歳から60歳までの間で、思いついた出まかせの年齢を言うのだが、驚くべきことに、一度も疑われたことがない。これはボクの数少ない才能のひとつかも知れないが、要するに年齢不詳であり、やがて生没年不詳となるに違いない。このようなとりとめもない想念が次々に湧くのも、心身の空洞化が進行し続けているせいなのか。

だが空洞は空洞として響きあっている場所が、どこかにあるはずだ。西行や芭蕉や山頭火は、その虚ろの響きあう場所を求めて漂白したのではなかったか、この人たちには人間社会のしがみから逸脱しようとした理由がある。でもボクにだって理由はある・・・われ虚ろ、人界そのものが虚ろ、さればこそ、純粋透明に響きあう世界があると・・・・(ボクは人と人との関わりのなかで、「空洞」が「空洞」と響きあうような関係性を密かに求め続けて来たのだが、最近ようやく、それが虚しい営為であることに気付いた。まあ、どうでもいいけどね、生まれてから一万三百人ぐらいの女の子たちが眼の前を通り過ぎたはずだが、誰もボクの空洞に気付いてくれなかった)

無性に「空洞の響きあう場所」に行きたくなって、この世のすべてのしがらみを打ち捨てて出奔をくわだてる。(ただし、とりあえず日帰りで)  十年ほど前、山が鳴り響く場所を発見したのだが、不意にそこに行きたくなったのだ。今抱えている仕事量や経済状況を勘案すれば、到底そんな余裕はない筈だが、基本的に気まぐれでわがままで出たとこ勝負の性格は直しようもない。行きたくなったら行くしかないのだ。もう午後一時を過ぎてしまったが、なんとかなるだろう。帰れなかったら一生帰る必要もないのだ。

中央線に乗って高尾駅まで行き、さらに甲府行き普通電車に乗り換える。ここから電車は幾つものトンネルをくぐり抜け、甲斐路をめざす。甲斐とはトンネルという洞窟をくぐり抜けて辿り着く黄泉の国である。実はボクは黄泉の国の出身者(甲府生まれ)なのだ。一時間程で「武田家終焉の地」の看板が目立つ「甲斐大和」駅に降り立つ。以前は「初鹿野」(はじかの)という、ゆかしい駅名がつけられていたのに、観光用の名前に変えられてしまったのだ。役人の考える浅ましい功利精神が駅名に露出している。

平日の午後3時過ぎのローカル駅、降りる客もボク一人だ。昼食を食べでいなかったので、売店でポテトチップでも買おうかと思っていたのだが、見事に一軒の店もない。自動販売機で「富士山の天然水」だけはある。西日に照らされた山と、谷あいを流れる川、大型トラックの走り抜けるアスファルトが目の前にあるだけだ。十年前の記憶を頼りに舗装道路をひたすら登ってゆく。竜門峡という、渓流沿いに続く遊歩道があって、すぐつくつもりだったのだが、記憶というのはあてにならない。それから一時間余り舗装道路をのぼり、やっと遊歩道の入り口に辿りついたが、かなり息があがってしまった。なにしろ昼飯の代わりに富士山天然水しか胃の腑に入れていない。もう陽射しも傾きかけて、このまま渓流沿いを歩き続けてどこに辿りつくのか、見当もつかないが、ともかく行けるところまで行ってみることにした。遊歩道は最初のうちはスロープのついた緩やかな小道だが、渓流を遡るに連れて、柵は無くなり、アップダウンのきつい崖道となっていった。眼下は流れの速い清流で、大小の石が群がっている。少しでも油断すれば、足を滑らせて水に呑み込まれてしまうだろう。渓谷なので日没近くになると夕闇がいちはやく迫ってくる。頭上には大きな石がせり出し「落石注意」の看板が目立つ。いくら注意したって落ちるものは落ちるのだ。しかもおぞましいのは、まだ掲げられて間もないとみられる「クマに注意」の看板が、ほぼ50メートルおきにぶらさがっていることだ。明らかに最近出没しているということだろう。この渓流で出会ったら、もう逃げ場が無いではないか。それなら最初がら「クマ出没のため立ち入り禁止」と、竜門峡の入り口に立てておくべきだ。ボクは腹を空かせたクマ御家族一行の、晩餐になるために漂白しているわけではない。

なんだっけ? そうだ、空洞とめぐあう場所を求めて、こんな自分自身にしかわからない渓流の奥まで彷徨ってきたのだ。この世の無意味さの無意味さ無意味さのその果てにある空洞に辿りつきたかったのだ。だが夕闇が、足元からひたひたと濃くなってきて、いささか焦りはじめた。背中になにやら魔闇の気配を感じる。それに押されてたすら歩いているようなのだ。木々の隙間から一日の最後のひかりを吸い込んだ水流が、蒼白に泡立ち、さああああ、あなたも泡立ちなさいと誘う。眼下五メートルのその水流にジャンプすれば、自分も清流の仲間になれるのか・・・・・。次第に呼吸が苦しくなり、どこでもいいから倒れ込みたくなってくる。と、その時、やっと、めざして来た「天鼓林」の立札がみえた。

その場所は河床から十メートルほどせりあがった小さな草地だった。天鼓林と名付けられているのは、足を踏みならすと、鼓のように大地が鳴るところから、名づけられたという。岩と岩が組み合わさって空洞の出来たところに、落ち葉が積み重なり、長い年月の間に腐葉土となって堆積したもの、と立て札に書かれている。天の鼓動の前に、自分の鼓動が爆発しそうなので、ともかくその草地に寝転がった。

樹林の隙間隙間に、藍色と闇が交じりあった夕空の断片が毀れてくる。間もなく夜だ。漆黒の気配にゆるゆると肉体が包まれる。水流の響きが細かいところまで透きとおって聞こえる。---もういい、もう十分でしょう、眠りなさい、溶けなさいーー。眼を閉じると、このまますっと大地に吸われて、この世から跡形もなく消えていけそうだ。

死んだフリをするのは、なんと心地よいことだろう。光と影が、ともに打ち消しあって、この世のありとあらゆるものの実体を無に近づけてゆくのだ。そこに自分も呑み込まれようとしている、腐葉土の一部となって。

ー何をしに来たのだ、こんなところまでー

不意に風がとどろき、ひとつの声が降臨する。落ち葉が生き物のように夕空に舞い上がり、一瞬葉脈を血筋のように輝かせて、河床にとめどなく落ちてゆく。その落ち葉の一枚一枚に自分の血が混ざっていることが、なぜかありありとわかった。自分とは結局世界の断片なのだ。そこに意味も無意味もなく、ただひたすらな断片なのだ。

まだ腐葉土にもクマの餌にもなりたくなかったので、身を起こして死んだフリをやめてみる。あああ、これからもヒトのフリをして、現世に戻るしかないのか・・・。

まず右足で、大地を鳴らしてみる。すると右足分だけ、大地が少し響く。つぎに左足で大地を踏んでみる。すると左足分だけ、大地が少し揺らぐ。右足と左足では微妙に世界の響き方が違っていて、世界とはもともとアンバランスなんだ思う。片足で、ずっと立っていられないように。身体とはもともとアンバランスな地軸なのだ。

つぎに両足を揃えて大地を踏み鳴らすかのようにジャンプしてみる。内臓が大地の空洞とぷるぷるぷる触れ合う感じだ。裸になりたがっているのだ、大地も自分も。どちらも裏返ってバラバラとなって混じりあいたいのだ、という衝動で、とめどなくジャンプをし続けることになる。もっと高く、もっと宙の果てまで跳べるようにと。 ともかくも大地とは響きあうものだ、ということが身体を通じて感じられる。

・・・・・・ときめきだ。わけのわからないときめきとしか名づけようものないものが,身体の芯を貫いてゆく・・・・・それはうまれて初めて出会ったなにかなのだが・・・・・・

大地の響きは、その都度身体に木霊するものだった。空洞は空洞として響きあいつつ、ほんとうの闇が迫っていた。

すべては未完だった。しかし人生をやり直すほどの時間は残されていない。ただときめきを凝縮する手立てはある。ひたすら両足で大地をジャンプし続ければいいのだ、身体が宇宙に向かってほとばしるほどに。大地も自分もぷるぷるぷるぷるぷる,震えつづけている。ボクはボクを打ち消すために、両足でジャンプするジャンプするジャンプするジャンプするジャンプする・・・底知れない空洞に向けて。

ひとすじのひかり

わたし達は偶然に生まれた。けれどなぜ必然のように死んでゆくのか。

十一月の晴れた日の青空は透明過ぎて、むしろ危うい。この地上にあってはならない不確かな存在に自分が思えてきて、ともかくここてではないどこかへ、自分を放ちにゆくのだ、と覚悟する。すべてが身の置きどころなく慄えているのだ。

宇宙空間から届く目に見えない夥しい粒子が、響きあい放電しあって身体を突き抜けて、自分を解いてゆくような感覚だ。けれど存在の根が慄えているのに、どこにも行き場所が無い。

中央線快速電車で、二日間続けて、革靴の紐が解けたまま、座席で寝入っているサラリーマンをみかけた。もちろん同一人物ではない。革靴の紐を結ばないのが今時の若いサラリーマンのトレンドなのか、とも思ったが、紐を踏まれればころぶだけので、そんなこともないのだろう。足元から解れて地上から離れたい、という無意識の願望が、そこに在る。彼らは靴を脱いで彼方にジャンプしたい願望を抱きつつ、中央線の座席で死んだように眠っている。

今しも自分が消え失せようとしている瞬間瞬間のただなかで、なにが凝縮して爆けようとするのか、そのことを問うてみる。<私>とは身体をひと時の借り物として、執行猶予のように生きたフリをし続ける存在ではないのか、と。

46歳で、吉祥寺ー西荻窪間の鉄路に横たわって自殺した原民喜のことを最近しきりに思う。民喜は最晩年に知り合った若き女性に、つぎのような遺書と詩を残している。

とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい
この僕の荒涼とした人生の晩年に あなたのやうな美しい優しいひとと知り合ひになれたことは奇蹟のやうでした
あなたとご一緒にすごした時間はほんとに懐しく清らかな素晴らしい時間でした
あなたにはまだまだ娯しいことが一ぱいやつて来るでせう いつも美しく元気で立派に生きてゐて下さい
あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します
お母さんにもよろしくお伝え下さい

悲歌

濠端の柳にはや緑さしぐみ

雨靄につつまれて頰笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ

私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ

すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ

祝福がまだ ほのぼのと向うに見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ

透明のなかに 永遠のかなたに

最愛の妻の死後、「あと一年生きて美しい詩集を残しておきたい」と誓った民喜だが、その一年後、故郷広島で原爆の災禍に遭遇してしまうのだ。そして終戦を経て六年後に民喜は自死するわけだが、原爆をテーマにした詩人、作家としての面目については、ここでは触れないでおく。ただ生きているうちに彼岸を明察してしまった表現者として惹かれてやまないのだ。

民喜は「死ぬ」のではなく、消える、消え去って行きたいのだ、と語っている。そして「祝福がまだ ほのぼのと向うに見えてゐるように」と記しているように、ひとすじの光として女性への思慕を滲ませてもいる。終末の不安のさざめきのただなかでしか見出せない、無償の愛の痕跡が、そこにある。単なる恋愛感情ではない、それを突き抜けた無償の愛の結晶と、その昂ぶりのようなものが、遺書にも詩にほのかに揺らいでいる、と思える。奇蹟の予感のように。

原民喜の魂の純粋性がきらめく詩、三篇を示す。

おんみ最も美しい幻

きはみなき天をくぐりぬける一すぢの光

破滅に瀕せる地上に奇蹟のやうに存在する

おんみの存在は私にとつて最も痛い

死が死をまねき罪が罪を深めてゆく今

一すぢの光はいづこへ突抜けてゆくか

おんみ最も美しい幻

きはみなき天をくぐりぬける一すぢの光

破滅に瀕せる地上に奇蹟のやうに存在する

おんみの存在は私にとつて最も痛い

死が死をまねき罪が罪を深めてゆく今

一すぢの光はいづこへ突抜けてゆくか

碑銘

遠き日の石に刻み

砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか

一輪の花の幻

風景

水のなかに火が燃え

夕靄のしめりのなかに火が燃え

枯木のなかに火が燃え

歩いてゆく星が一つ

ひとすじのひかりはいづこへ突き抜けてゆくか、この世はたまゆら、なれど、されども・・・・

原民喜は鉄路に身を横臥えて、なんの響きに耳を澄ませ、どのような宙に向かって眼を見開いたのか。そこから始まる世界も、きっとある。

宿命としての身体

しばしば自分を、この世では意味がない発光体だ、と思う。あるいは水柱のようにとめどなく繁吹くばかりだ、と。だから公園で意味もなく繁吹いている噴水を見ると、すぐ近付いて手をたたきたくなる、おおわが友、という感じだ。際限もなく無駄なことをやり続け、しかも臆面もなく表も裏も大衆の視線に、水という肉体を燦然と曝している。この水は生きているのか?死んでいるのか?

その事を誰に問えばいいのか。

生きてもいないし死んでもいない、その軋みのような空間に<私>という匿名化された存在を漂わせているばかりだ、というのが、日頃親しんでいるライフ感覚だ。前世はクラゲ(水母、海月)だったのだろうか。しかし人として生まれた以上、宿命のように「身体」を背負い、何者かを演じ続けていく他はない。だが「生身の身体性」とは、この世の身の丈に合わせて演じようとする自分自身を、しばしば凌駕する。

佐佐木幸綱の短歌を読んでいると、そんな「宿命としての身体性がさざ波だってくる。

白魚をわが現身にに入れてわが現身とするさざなみだちて

この白魚は生きたまま口に運ばれた気がする。いわゆる「踊り食い」か。踊り食い、という言葉自体もすごい。踊りながら食べるわけではなく、ぴちぴちと跳ねる白魚を丸呑みするわけだが、こんな原始的ともいえる食文化が残されているのは地球上で日本だけではないのか。もっとも原始的な生活風習を残すオーストラリア原住民でさえ、生きた豚を丸齧りすることはないだろう。幸綱の歌は生きている命をそのままわが命となす、ということだ。だから、さざ波だってくる。アニミズムなのだ。

カツサンドほおばる口を見られいて対岸の火事彼岸の食事

夏の女のそりと坂に立っていて肉透けるまで人恋うらしき

これは第一歌集『群黎』の、よく知られた歌。「対岸の火事」は、時代をとりまく社会状況かも知れないが、ともかくカツサンドをほおばることが、すべてなのだ。このカツサンドは部厚そうで、うまそうだ。濃い目のソースが、たっぷりかかっている。「見られいて」だから、傍若無人にほおばる事への恥じらいもある。でも食べるとは、そういうことだ。

二首目は「のそり」がなまなましい。幸綱は、この時「夏の女」に食らいつきたいほどの情愛を感じつつ距離を置いている。。誰を恋うのですか、幻を恋うわけにはいかないのですよ、ひとつの肉体をもった存在としてしか、この世では恋を成就できないのですよ・・・。食欲や性欲の様相を描いているが、それを突き抜けた命のエナジーがモチーフとなっていることは明らかだ。

柚子の香の残れる口があっと言う夜のくちびる小さく開けて

霧の夜に象牙の球が打ち当たりぎらり老いたる目玉がふたつ

くちびるの形やふたつの目玉が、迫ってくる。

「口」は香りを吸収するが、それが「あっ」という感嘆詞にも変容するのだ。口という全体性が、くちびるという個別性へと移ろうエロスの瞬時を捉えた一首目、「ぎらり」と歳月に燻されたようにひかるふたつの目玉の執念を捉えた二首目・・・・。くちびるは闇のなかで蠢き、目玉は霧のなかで爆ぜている。エロスとか老いとか、そんな紋切り型の批評で、これらの歌を理解したくはない。得体の知れない何かの気配に向かって、唇や瞳が見開かれているのだ。「肉体の人工的訓練ではなく、理性を脱した肉体の自然性の回復に幸綱は力点を置く」という、菱川善夫の言葉を思い出す。

身体性とは、もともとからっぽだった魂に、何かを注ぎ込むフイールドだったのかも知れない。得体の知れない何かに向けての。宿命としての身体は、最早繁吹くしかないのだ。