2010年9月のアーカイブ

雨の日、ブラームスが聴きたくなって

久々の雨の日、ブラームスが聴きたくなって吉祥寺へ出かけた。

なぜ吉祥寺かというと数日前、ブックオフ吉祥寺店で「グレン・グールド坂本龍一セレクション」というCDを見つけたからだ。グレン・グールドは、その斬新なバッハの平均率クラビア曲集を聴いて以来、傾倒してきたピアニストだが、ブラームスはまだ聴いたことがなかった。

その時は買わなかったのだけれど、今朝、雨粒の弾ける音に目覚めたら「ぼくは彼の弾くブラームスをこよなく愛している。いったいどうやって彼は若くしてあのような深い瞑想性と沈静なるメランコリーを獲得してしまったのだろうか」とあった坂本龍一のパッケージ文が不意にざわざわと明滅して、ああグールドのブラームスが聴きたいと思ってしまったのである。
雨粒のひびきは、こころの内部をめがけて落ちてくる。

雨の日のバスは動く水族館のようだ。
水中の青く透き通った塊を運ぶ液体車。
もよりの武蔵小金井駅までは徒歩か自転車なので、普段は決してバスに乗ることはないけれど、不意にその「水族館乗り合い自動車」に乗りたくなってしまったのは、雨を別の視野から眺めてみたい、という気分になったから。

三歳ぐらいの女の子とその父親が前の座席に座った。ピンク色の雨着を身につけ、三角形にピンと尖ったポンチョが可愛らしい。女の子は外を見るために、水蒸気で曇ったバスの窓をてのひらでぬぐった。何度も何度もぬぐった。私もそれをまねてバスの窓をぬぐった。何度も何度もぬぐった。女の子が窓に顔を貼り付けたたので、私も顔を貼り付けた。できる限りぴったりと。

すると雨の彼方に、もうひとつの街が生まれる気がした。まだ誰も見たことのない、地図にない街・・・。女の子は、やがてバスの窓に、指でなぞってなにかを描きはじめた。窓はキャンバスでもあったのだ。父親が女の子にたずねる。

「なにを描いているの」
「あめ!」
女の子は降りる時に父親にいった。
「バスだとあめに濡れないね」

ブックオフは「いらっしゃいませ。こんにちは」の体育会系の連呼を自粛したらしい。よかった。どやしつけられるようなサービス過剰は、「買わないならお帰んなさい」といわれているのと同じだから。グールドのCDは売れずに残っていて、スタッフの女の子は一枚一枚を手品師のようにくるくるさせて、OKでしょうかと確認する。(二枚組だったんだ。得したな)

吉祥寺駅は駅前ビルの「ロンロン」が「吉祥寺アトレ」となってオープンして間もなく、狭い空間に雨の匂いを微かに纏った人々がひしめきあっていた。同じ空間の再利用であり、出店も以前と大きく変わっているわけではなく、いわば新装開店なのだが、少し空気が違う。それは匂いだ。

改札を出てすぐに珈琲店があり、それから香りをウリとする専門店が続く。その間に人々の匂いが滲んでくる。雨の日だったから、余計に人と物、ありとあらゆる食材の香が混ざり合って、発酵し始めるようだ。

「遊歩道のようにこの街をつなぐ」というキャッチコピーは、適切だ。あまりに適切なため、人々は遊歩道をそぞろ歩くように、細長いビルの中でショッピングさせられてしまうのだ。室内に出現した縁日のようであり、お祭り気分の喧騒に満ちている。人並みにもまれて、その喧騒の廻廊をいったり来たりしているうちに、「鎮まれ鎮まれ波騒ぐまち」という言葉が不意に閃いた。呪文のように繰り返していると、ほんとうに周囲の音が鎮まりつつあった。それと同時にアトレの内部に微かに雨の気配が満ちてきた。(表層の世界を雨の気配が少しづつ少しづつ打ち消し、彼方の世界の韻きを呼び戻そうとしている)

鎮まれ鎮まれ波騒ぐまち、痛いきらめき、水晶の雨が降り注ぐ架空廻廊

プラカードを掲げて新製品胡桃クリームパイの名前を連呼する店員にも、半額セールをしている「名物焼きシューマイ」に行列をなす人々の群れにも、等しくその目に見えない微雨は降り灌いでいる。ここはいったいどこなのか?数億年前に滅びた惑星の、文明の記憶が再現されているだけなのか。雨の韻きによって。

家に戻って、グレン・グールドのブラームスを聴いた。雨はまだ降り続いている。雨はこころの窪みに落ちてくる、とは誰の言葉だったのか。間奏曲変ホ長調、また変ロ短調。雨には色調と音階があることを知った。グレン・グールドは雨音を音階に置き換えているかのようだ。あるいは雨に予感の韻きを付け加えている。雨粒が蜘蛛の巣にかかった雫のように、いつまでも震えてやまない旋律。世界は蜘蛛の巣に揺らぎ続ける、一滴に過ぎないのか。音階のひと粒づつが、光つつ消えつつ彼方へと連なる。ああ微雨だ。

雨そのものではなく、雨の消えてゆく姿をずっと眺めていた
何度も何度も窓をぬぐいながら
そのたびに悲しみは深くなっていたのだけれど、ぬぐわずにはいられなかった
雨は窓の彼方にあるひびきだった
遠くに見知らぬ街が明滅している
あなたと聴き分けた雨音が、ランプの灯のように揺らいで消えた

不意に女の子の声が甦る。「バスだと雨に濡れないね」

お帰りなさい、ご主人様

個人用のパソコンがクラッシュしてしまったので、秋葉原へ出かけた。

「使いこなせるかどうかはあなた次第」みたいな、保障期間無しのパソコンを買い継いでいるので、大抵数
ヶ月で変調をきたす。それなら最初から新品を買えばいいのだが、自分の生き方に見合った「出たとこ勝負パソコン」に、つい目がいってしまうのだ。私は、いかなるオタクでもないので、秋葉原に特別な思い入れはない。ただ、ビジネス街とも歓楽街とも商店街とも相違する、あるいはそれらがすべて綯い交ぜになった不可思議な街の空気に、時々肌身をさらしたくなるのだ。

都市計画の見本のように高層ビルが建ち並び、再開発された電機街だが、ふっと小路を曲がるたびに微妙に空気がかわる。大通りと狭い路、パーツだけを売る店の集合する古いビルと、各階ごとに新製品をずらりと並べる真新しいビルとの混在。その隙間を行き来する、無国籍な人々・・・・・。

この街には外観だけではうかがい知れない、幾つもの迷路が隠されている錯覚を与えられる。街の空気そのものが「出たとこ勝負」なのではないか。

だがその日午後五時過ぎ、駅頭に降り立つと周囲のさざめきとは別に、奇妙にしーんとした気配を素肌に感じた。ひたひたと足もとに、細かな漣が打ち寄せる気配だ。秋葉原通り魔殺人事件があった現場のことを思ったのだ。事件があった翌日、私はなにか、居てもたってもいられない気持ちにかられて、事件現場に足を運んだ。男が取り押さえられた電気店ビルの裏側のコンクリートの段差に、返り血だったのか、血痕が染み付いていたのが忘れられない。事後処理されたにもかかわらずコンクリートに付着していた血痕に、激しい格闘、というより、犯人の殺戮への情念を感じて鳥肌がたった。犯行現場となった大通りの四つ辻には献花台が用意され、多くの花束と缶ビール等が手向けられていて、私はただただ頭を垂れて戻ったのだ。
この事件の後、秋葉原という街の空気を生かしたストリート系パフォーマンスは自粛されたが、「お帰りなさい。ご主人さま」は健在のようだ。「出たとこ勝負の街の迷路に招かれるときめき」その案内人(ガイド)として、彼女たちは、街路街路に立ち尽くしている。メイド喫茶の客引乙女たちである。江戸時代からある「客引女」の概念を踏まえて用いると、差別用語として告発されかねないが、やはり「客引乙女」がぴったりするのでどうしようもない。ゴシックロマン風のメイド姿が主流だったのに、浴衣姿とかホットパンツとか制服とか、様々なコスチュームが解禁された、という印象だ。

なかでも驚いたのは、体育着とかを入れる紺色のショルダーバックを肩にかけて、外見上普通の高校生そのもので「客引乙女」をしていた数名。彼女たちは中央通りに、およそ二十メートルの等間隔で並び、バッグからわざわざチラシを取り出して通行人に渡していた。考え抜かれた商行為だが、もはやメイド喫茶のカテゴリーを逸脱している。
どんなチラシも似たようなものたろうと、サンプルとしてチアガール姿の客引乙女の配っていた一枚をもらうと「ありがと、ございまっす」の元気な声。よく見ると「耳掻き30分まで6000円、以降延長格安料金で」とある。脳髄まで耳掻きでほじくり出されそうであり、「お帰りなさい、ご主人様」では済まされそうにない修羅場の雰囲気がある。いづれにせよ、とりどりのコスチューム纏う彼女たちは、限りなく人形に近付きつつある存在であることは確かだ。だが同時に決して人形になり得ないことも知り尽くしている。秋葉原電気街の裏側に、荒涼とした原っぱが張り付いていることを、あらかじめ知っているみたいに。

ヨドバシカメラとかソフマップとか石丸電気とかのビルを上ったり降りたり、路地のワケアリ感の漂う各店を漂っているうちに、結局「出たとこ勝負一本!」といったパソコンにはめぐりあわず、日はすっかり暮れ落ちてしまった。

次第に足もとに力が入らなくなり、それと同時に全身から力が抜けてゆく。湖水の気配が、ひたひた身体の内外に満ちてゆく。それと同時に、なにか胸を締め付けられるような悲哀というか叫びのごときもののかたまりが、身体の内外にせりあがってくるのが感じられた。奔って奔ってゆくささささささと、とめどなくとどめなくとどろいて・・・これまで眺めてきた液晶画面のことごとくは、湖水ではなかったのか。どっと、どっと、どっとっと、どっとっと、どどどどどどどどどどっと・・・なにかが溢れようとする気配があり、私は呼吸をとめて、ともかくそれを鬩ごうとした。秋葉原という荒涼の草地に、なにかすさまじい透明な水脈が生まれ、いましも地表から爆裂しようとしている・・・。しかしそれを溢れさせたらお終いだ、なにもかも。
だが、決壊する。世界は決壊するために存在するのだから。

それは気配として足元にさざめいていたが、やがて身体の内外を覆い尽くして、一気に自他を噛み砕く。パソコンの液晶画面のすべてから湖水は溢れ出し、それを眺めていたあらゆる瞳、ビルの窓、マンホール、アスファルトの細かな亀裂から、怒涛のように水が炸裂する。秋葉原はまたたく間に大きな湖水と化し、そこにやがて、人形じみた人間じみたものたちが、あちらこちらに浮かびあがる。あるものは黒っぽいエプロンの袖をひらひらさせ、あるものはナップザックを背負ったままうつ伏せになり、あるものは水を含んだ青黒い巨大な海月と化している・・・。

秋葉原が湖底に沈む妄想は、ここまでにしておこう。だが、夥しい屍体の浮かぶ湖面に、溺れかけて生き残った真裸の人形の、呪文のようなつぶやきだけは、聞きとめておきたい。
「オカエリナサイ・ゴシュジンサマ」

まっしろ、或いは人形志願

吉祥寺の焼き鳥屋、伊勢や公園店は、井の頭公園の入り口にある。
ここの二階の窓際に座り、ビールを飲みながら眼下の石畳を行き来する人々を眺めるのは、ささやかな至福のひとときだ。

午後四時時なのに、店内はほぼ満席。
それにしても、猛暑からいきなり秋になってしまった。窓からの風はすっかり涼しい。

できたての名詞のようなあやうさで静かにこわれはじめる空よ  東直子

季節の変わり目の空は、ひび割れやすい。微かになにかが壊れはじめる気配がする。でもそれは崩壊感覚ではなく「まっしろ」に戻ることだ。「ふ、とまわりがまっしろになることがあります。わたしは白いお空になるのです。白いお空はなにも考えません。」東直子
世界は完璧であるよりも、いつも微かにひび割れていた方がよい。その隙間から滲む、まっしろなもの・・・。

石畳を行き来する人たちは、みなそれぞれの歩幅をもって歩いている。そして改めてヒトは二足獣だったんだと思う。生物が直立歩行してから、たった数万年しかたっていないのに、頭に旋毛を生じさせて、いつのまにかいろとりどりの衣服をまとい、手をつないで歩いたりしている。それでも人が歩くのは、健気で一途な姿だ。

一歩で一段歩くのが普通の大人の歩幅、二歩で歩くのが子供と老人の歩幅である。そこに時々、ヒトの歩幅ではない者たち、例えば見捨てられた人形が、すっくり起ち上がり、人のぬくもりをそっくりそのまま纏ったまま、微かな妖気を発して歩いている気配も混じる。そんな連想が浮かんでしまうのは、「まっしろ」を引き摺ってしまったためなのか。するとこの井の頭公園に続く石畳が、黄泉に続く入り口でもあり出口でもあるように見えてくる。石畳には、廃墟の感触があるのだ。

「人間は影が夢みる夢である」 (ピンダロス)

ギリシャ古詩の一節を何年かぶりで思い出した。だが今のわたしは「人間は影が夢見る理不尽な夢である」と、言い換えたくなる。なぜ理不尽なのか・・・。

午後六時を過ぎると、薄暮の気配が窓にも胸にもひたひた押し寄せ、それに伴って井の頭公園から虫の音が届く。胸に強くひびく虫の音が、「ここではないどこかへ」と命じている。それを合図に「伊勢や」を出た。理不尽、についてはまたいつか・・・。わたしも石畳を歩いてみることにする。少し壊れかけた、人形志願の人間として。

ほのかな野性的ういういしさ

短歌研究の三賞受賞パーティーに出席して、短歌研究賞受賞者の米川千嘉子さんのよどみないスピーチを聞いていたら、不意に米川さんに出会った日のことを思い出した。

短期間ではあるが、私は「かりん」に所属したことがあり、まだ早稲田の大学生であった米川さんが、初めて歌会に出席した日に、偶々私も同席していたのだ。短歌という不思議の森に迷いこんでしまった野性の少女、という感じで、戸惑いつつ清潔なオーラを発していた。

米川さんは坂井修一さんの一首に、意味としてすんなりわかるわけではないけれど、気持ちがしっかり伝わる歌、といったようなことを、指名された歌評で述べていた。それ以降、米川さんと個人的交流があるわけではないが、あの「野性的ういういしさ」という第一印象を、忘れることはない。

相模のや浜に積まるる蛸壺にするりと入りし花の夕闇
一生にあきらめきれず何度いふ船はぽおんと鳴きて出でたる  米川千嘉子

からっぽの蛸壺に、「するりと入る」色づく夕闇、つぶやくように「ぽおん」と出航する船…。詩歌を成熟させる魂(カリテ)に、野性の少女のういういしい感性が(多分ほのかに)織り込まれていることを思わずにはいられなかった。

マクドナルドな人々

マクドナルドで昼食がわりに、ソフトクリームとアイスカフェラテを頼んだ。子羊の眼をした女の子がソフトクリーム製造器を、しばらくかしゃかしゃさせていたが、いきなり振り向いて

「すみません。器械のメンテナンスが十分でなくて」

と、泣きそうな羊声を出した。

別にソフトクリームのぐるぐるが出てこなくたって泣くほどのことではない。けれど、私はこれで三回続けてマクドナルドのソフトクリームを食べそこなっている。

それぞれ別の店だが、一度目は材料切れ、二度目は早朝に行ったので午前11時からの販売になっているといわれた。

これはもう「マクドナルドのソフトクリームは食べるな」と運命付けられているといっても過言ではない。とりたててソフトクリームに執着しているわけではなく、もともとスイーツなんて滅多に食べないのだ。それでも注文したくなるのは、幼児的体質が抜けないということもあるが、ファーストフード店にとりとめもなく充満している、「かりそめの慰安が不安定に漂う気配」を、ソフトクリームを口中で溶かしつつ、宥めたいという無意識の願望があるからだ。
平日のマクドナルドは一人の客が多い。

たいていトレイからはみ出しそうになったフライドポテトなんかを口に運びながら、ケータイの画面に向っている。客同士の距離は近いのに、それぞれ別の空間に浮遊する椅子に腰掛けているようだ。こういうヒトビトを、自分も含めて、ひとまず「マクドナルドな人々」と呼んでみる。

同じ空間で一人がひとりずつの鏡に向き合いながら、決してまじりあったり反射しあうことのない場、そういう匿名の場に身を置くことは、ごくあたり前のことであり、かりそめの慰安を与えてくれるのだが、ほんとうはどこか不安定なのだ。幽霊船のように揺れてとりとめがない。

アイスカフェラテは、表面の泡立ちが絶妙で、幽霊船の飲み物にふさわしい。それで、幽霊船の船長として、ひととき、まわりの船員を眺めまわしてみる。

ハンバガーであれなんであれ、ものの食い方には、その人のこれまで生きてきたすべてが表されてしまう。無防備なのだ。

ほとんど三口でチーズバーガーを食いちぎる体育会系の男子は、ステゴザウルスに匹敵する顎力を継承しているとしか思えない。ビーバーのようにフライドポテトをかしかし齧って食べる女子大生は、就活のガイドブックなんかを首を低くしてひたすら読んでいる。びんぼう揺すりをしながら、ハンバーガーを食らいつつメールをしていた中年男性は、アイスコーヒーで目立たず嗽して、取引先に携帯をかけ直してした。

「鏡、あるいはこの底なしの深さのなさ。それが鏡の中に入ることをひとに夢みさせるのだ。そして鏡の中で、ひとは無限に表面にいる。われわれは決して奥にまで達することはできないのだ」
宮川淳 「表面について ルイス・キャロル」より

ひとりひとりが鏡のなかに覗きこんでいるものは、情報の波間に浮かぶ自己という幻影なのか。変幻自在な、しかし決して隣人とは混じりあわない自己像・・・

「いちばんふしぎなことは、アリスがどこかひとつの棚に目をとめて、そこに入っているものをはっきりさせようとするたびに、まわりの棚はあふれるほど一杯なのに、この棚だけはいつも空っぽなことだ。あるときは人形に、あるときは裁縫箱のように見え、いつも彼女が見つめる棚の上の棚にある大きなきらきら輝くものをちょっとのあいだ、空しく追いかけたあと・・・」
宮川淳「同」

「この棚だけはいつも空っぽなことだ」

マクドナルドの客席は、もしかしたら「空っぽの棚」だ。けれど「大きなきらきら輝くもの」とは、なんなのだろう。

だからマクドナルドのソフトクリームを食べたかったんだよ。

息づく蝉殻・あるいは未詳の発光体

酷暑の夏も今日が最後と、お天気係の美少女がテレビで呟いていたけれど、どうなのでしょう。家の近くに森とみまがう公園があるので、毎日のように訪れています。

栃の木の葉裏に、びっしりと蝉殻がしがみついて、晩夏のひかりのなかで揺らめいています。蝉殻は黒ずんでみえるけれど、その樹にのぼるまでの目にみえない軌跡を曳いています。宙空に描かれた星跡のように。揺らめくものの向う側の世界を映し出す断面は、どれも美しいです。一瞬、一瞬が彼方へと誘う色、輝き、響きとして織り込まれつつ、さざめくから。

木洩れ日に透ける葉脈、朝夕に透けるカーテン、彼方なる水  雅人

洪水の気配でも、飛沫の気配でもいいのだけれど、いつも「彼方の気配」に感性を研ぎ澄ましていないと、たちまち現実に身を借りたグロテスクな力に打ちのめされてしまう気がします。

運命とは「宇宙との静かな約束」ではないかと、葉裏にしがみつく蝉殻を眺めつつ思います。蝉殻をよく眺めると、八本の足裏に、鋸状のぎざぎざが刻みつけられています。宙空に脱皮するためには、しっかり葉をつかまなければならないのです。

蝉殻は「死んでゆくものの空殻」と同時にこれから「翔びたつもののエナジー」を含んでいます。だから蝉殻は、宇宙の発光体ですね。
狂おしく発光しようとする視覚、聴覚を結晶させようとする形態。

蝉殻は生き物だったのです。世界中のいずれの書物にも証明されない発光体です。

死(タナトス)の衝動と脱皮願望

大空の銃痕である蜘蛛の巣をホームの先に今朝も見上げつ  光森裕樹

日々、強烈な死(タナトス)への希求を胸に秘めていると、身体まるごとを無条件に撫ぜてさすって彼方へ運んでくれるような感触を、無意識のうちに求めてしまいます。木洩れ日でもいいし、崖っぷちに打ち寄せる波のひびきでもいいし、蜂の巣のように機関銃で撃たれてもいい。だから、全身に打ち寄せるなにかが欲しくなります。

生きてもいないし、死んでもいない、なにか隙間だらけの時間に浮遊しているだけ、というのが日常感覚なので、自己と世界を超えたさざめきに、身を浮かばせたいのです。大空の銃痕を覗き込みたいように。

5、4、3、2、1・・・・・・
またしてもそこで足が止まる。
「色即是空、空即是色」と呟いてみる。それでも零地点へと跳べないのだ。
崖下数十メートルの波の泡立ち。

色即是空
空即是色
(この世の現実はすべて空、実体のないものが空に反映されているだけ)

身を投げ出すのだ 空や海や雲や空気に 自分自身を溶かしてみたい。
ときめきこそ自由なのだ。それは目にみえる世界を、いったんFreedamにすること。悟るとは知ること。それは身を投げ出すときめきを知ることではないのか?

脱皮しようと思いました。それで無性に断崖に立ちたくなって、熱海の錦ヶ浦まで来てしまったのです。祭日なので、熱海駅周辺は家族連れで賑わっていたのに、錦ヶ浦には人気がありません。もっとも、自殺の名所として知られる錦ヶ浦の断崖までやって来るファミリーもいませんが。その錦ヶ浦の断崖絶壁も、硝子張りの高いフェンスが張り巡らされて、サロンのような展望台となっています。自殺志願者は飛び降りる前に、脱獄囚のようにそのフェンスを乗り越えなければなりません。その気力と体力があれば自殺する理由もないでしょう。生と死を隔てる薄い皮膜のようなものを突破したくて断崖まで来たのに、そこにも高いフェンスが立ちはだかっていたのです。
私はことさらな自殺志願者ではありません。ただ自分を試しにきたのです。一度死んで蘇ることが出来るのか、つまり時間や空間を超えた世界に自分を投げ出せるのかを。崖から飛び降りて、海に着水するまでの数秒に凝縮される一生の風景、頭脳が真空となり、そこに駆け巡るビジョンをみたかった。しかしこれも矛盾です。自分は一瞬で消滅してしまうのだから。
硝子張りではあっても、崖は崖。彼方のひびきを引き寄せています。崖はほぼ垂直で、数十メートル下に絶え間なく波が泡立ち、同時に水平線を受け止めています。
崩れ落ちようとする心を、彼方が押し寄せて、現在へと揺り戻そうとしている。生と死を隔てていた皮膜が、ひとひらひとひら剥がれて、交じり合おうとしていた。隔たっていたものを削ぎ落とす場所、それが断崖です。

そこではすべてが直接だ。自分と世界を隔ててきた薄い皮膜、いつもそれを破ろうともがき続けてきたのではないか。それが今、剥がれようとしている。崖上に佇んでいると、すっと彼方の感覚が入り込み、皮膜が剥がれて、自在な空間に脱皮できる気がした。「脱皮」そうか、私はいつも彼方へと脱皮したかったのだ。堕ちるのではなく、そのまま空に溶けることができるなら、崖から飛び降りるのも悪くはない。
5、4、3、2、1・・・・・・だが、そこから零地点までは、まだまだ遥かだ。


熱海から戻ると、背中に断崖の気配を感じるようになっていました。断崖が背中に張り付き、絶えず彼方のひびきを呼び集めている感覚です。

そこに必要な一脚の椅子

吹きっさらしの、果てしない場所に佇みたかったので詩歌出版社を起ちあげました。

無謀、横暴、でくの棒ですね。それに至る経緯は一切省略して(独笑)して、「吹きっさらし」の感覚について書きます。

最近、岩波ホールで上映されている「セルフィーナの庭」を観ました。

貧しい使用人に過ぎなかったセルフィーナが、天才女性画家として認められつつ破滅する物語、といってしまえばそれまでですが、ラストシーンの静けさが胸に絡んで、いつまでも響きます。正気を喪って精神病棟に閉じ込められたセルフィーナが、部屋の戸を開けて、草原の彼方に佇む一本の樹木に向けて、傍らにあった椅子を抱えてひたすら歩くのです。

そこにたどりつくまで背中に風が幾重にも吹く感じです。一本の樹木のさざめきに行き着くためには、ひとつの椅子が必要なのですよ。だからセルフィーナは、ひたすら草原を歩きます。セルフィーナが樹にたどりつけたのかどうなのか、映像では明らかにしていません。ただ遠景に風吹くばかり。けれどセルフィーナは風や樹木や青空や、花々のひとひらと一体になって、絵を描いてきたので、溶け合っているんです、世界と。そこは正気も狂気もない吹きっさらしの場所です。ああそこなんだ、ときめきとときめきが混ざり合う場所は、と思いました。そこに必要な一脚の椅子!

偶々、芸大在学中の画家で歌人でもある結城胤美さん(短歌苑の表紙を描いてもらっています)のホームページを読んでいたら、大阪で起きた九歳で虐待されて死んだ、女の子の事件を取り上げていました。結城さんは、つぎのように記しています。

「数日前からあるニュースが頭から離れない。大阪府の児童虐待死のニュースである。母の内縁の夫である男に日々虐待されつづけ、脚が使えなくなりおしりで這ってかろうじて移動し、飲食もろくにさせてもらえず、「ここで寝る。おやすみなさい。」と言ってまだ寒い季節にベランダでひとり亡くなった9歳の女の子の事件である。全身痣だらけの為、親が虐待発覚を恐れ学校にも行かせてもらえなかったのだが、学校側は一度少女の痣を発見していたのになんの手もうたなかった。近所の住人も少女がベランダに一週間立ち続けているのを目撃していたのに通報しなかった。最期まで実の母の事は信じていたそうだが、母も虐待の様子をカメラで撮影したり、虐待に荷担し、以前の優しい母ではなくなっていた。少女は亡くなるその日も想像を絶する悲惨な暴力を受け、「ひまわりを探している。」と寝た姿勢のまま右手を動かし、うわ言を呟いていたそうだ。少女にまだ普通の家族があった頃、皆でひまわり畑に行った事があり、それから少女はひまわりが好きだったという。」

この事件は様々に報道され、その虐待行動の悲惨さばかり強調されてきたけれど、「ひまわりを探している」という女の子のつぶやきへの着目に、胸を衝かれました。
ベランダに傷だらけのひまわりが集まっている。そのつぶやきのつぶつぶのひとつひとつに、ひまわりの黄が滲み出す。まだらになったときめきが、ふつふつと世界に飛散してしまう。どうしようもなくかけがえもないものの気配が弾けて遠ざかってしまう・・・・。それ取り戻したかったことを、誰に告げたらよかったのでしょう。

女の子にとっての、生涯かけがえのない思い出である「ひまわり畑」が、なぜかとりとめもなく広がり、「セルフィーナの庭」の風景と、結びついてしまったのです。

女の子はベランダというひまわり畑に逃れようとしたのかも知れません。記憶のなかのかけがえのないひまわり畑で死んだのだと。その場所は女の子にとっての聖域です。虐待死されたから不幸、という価値観だけなら女の子の魂は行き場がない気がします。けれど「ひまわり畑」というという、吹きっさらしの場所こそ、なにかであると思います。つまり、そこから彼方へと続いている夢のようなまばゆい空間が、未知領域だから、在るかも知れないし無いかも知れない。吹きっさらしの場所から、セルフィーナの庭にも女の子のひまわり畑にも続いている風が吹くこと、目を閉じてその風を感じてみること、そしてそこに必要な一脚の椅子が輝いて在ること。その椅子に女の子が座る権利があるということ。

そして、ひとまずその椅子に自分自身が座ってみたかったのです。

だから吹きっさらしの場所から始めたのですよ。